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福永信さんゲスト回(2020/8/29) レポート

講義のはじめに福永さんは「ライブ感」という言葉を強調された。
これは読むことにおいても書くことにおいても「ライブ感」が重要であるという文脈であり、今回の講義に通底する姿勢だった。

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最初のセッションは、他の受講生が執筆した展覧会のレビューを1つ選んで5分間で読み、その内容についてプレゼンするというものだった。ここで興味深かったのは、本人になりきってプレゼンするというルールが設けられていたことだ。
「私は」
「~というところが心残りです」
といった口調を用いて、完全に執筆者になりきるよう指示された。最初はたどたどしかった受講生も徐々に、まるで発表者が執筆者本人かと見間違うほどに巧みなプレゼンをしていたのが印象的だった。

「~は難しくなかったですか? 」
「~という書き方は好きでやっているのですか? 」
「この文章はすらすら書いたの? それとも練り上げて書いたの? 」
といった質問が福永さんから投げかけられ、執筆者もそれになりきった発表者もドキッとするような場面も見受けられた。
福永さんはこのようなセッションについて、自分の書いたものが如何に読み手に伝わらないかを痛感する機会になるとおっしゃっていた。

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自分自身が書いた文章を前にすれば、たとえそれが表面的な言葉の羅列であったとしても、その意図を簡単に読み取れるのはあたりまえだ。自分は自分自身の誤魔化しに気づかぬふりをすることも、説明不足な点を全体の文脈から頭のなかで注意深く補うこともできる。しかし問題は、書き手がその文章に対して何も知らない読み手になることはできないということだ。
このセッションで文章を読むのに与えられた時間は5分間であったが、それは極めてリアルな数字だった。じっくり読むわけにはいかない5分間という時間のなかで、読み手に自分の文章の色や思考を伝え、展覧会や作品の1つの新しい見方を提案するのは難しいことである。常に厳しい読み手や文章に素早く目を通すだけの読み手を想定する必要性と、ある程度書き手の温度が残った文章の魅力を実感した。

フリートークのなかでは、受講生全体の文章に対して気になることについてお話しされた。作家の代弁をするような文章ではなく、もっと思い切って書くべきだということ。間違うことを恐れず、記憶違いも書き手の財産として考える(研究論文等は別として)という福永さんの考え方は、遠慮のない生き生きとした文章、また書き手の人物像をも匂わせる文章を生みだすための鍵である。そしてそのような文章は確かに大いに惹きつけられるものだ。
福永さんは文章における余白の重要性についても触れられた。書き手が重箱の隅をつつくように全てを書いてしまうのではなく、読者がそれを読みながら味わうための空白を残しておかなければならないということだ。これは読み手に「ライブ感」を与えるということなのかもしれない。

展覧会のチラシを持ち寄って行ったワークショップでは、読む対象が単に雑誌や本の文章だけでなく、展覧会のキャプションやチラシでもあることを再認識させられた。
特にコロナ禍において実際に会場に足を運ぶのが容易ではないために、展覧会のチラシは読み物としての機能を拡大化していると福永さんはおっしゃっていた。そう思って改めてチラシを見ると、全く異なる物体に見えるのが面白い。単なる紙切れではなく、立体性を持った文字の連なりとして立ち上がるのだ。私たちの周りには読み物として向きあうべき対象が、もっと沢山あるのかもしれない。

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講義の後半には、本スクールが2019年度に発刊した『Jodo Journal』の創刊号について、鋭く、靄が晴れるような生きたアドバイスをもらった。福永さんの事物への冷静な態度と柔軟で豊かな思考力、そして常に自分が生み出すものの向こう側にいる人への徹底した意識をライブに感じられる講義だった。

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園田葉月

そのだ・はづき|同志社大学文学部美学芸術学科3年。専門は15世紀イタリア絵画だが、現代アートにも関心を持つ。現在は京都文化博物館主催のプロジェクト「目を凝らそ」に編集アシスタントとして参加中。


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