【イベントレポート】エスカレーターから花火大会まで!?:マルチエージェント・シミュレーションのビジネス活用事例──第5回データ流通市場の歩き方(前編)
「エスカレーターを安全に、公平に使うには?」
「花火大会の会場から最寄り駅まで、安全に移動できる経路は?」
こうした問いを、実社会で検証することはなかなか難しいものです。でも、コンピューターで計算できたらどうでしょうか?
加速する技術発展や世界規模の感染症拡大など、めまぐるしく移り変わる現代社会において「いかにして未知の事象を予測するか」は一大関心事となっています。そして近年、これを探求する一つのアプローチとして「マルチエージェント・シミュレーション(MAS)」と呼ばれる手法が注目を集めており、急速に社会実装が進められています。 データ活用において、MASはいかなる可能性と課題を持っているのでしょうか。
そこで日本データ取引所では、ビジネスとアカデミアそれぞれの現場からMASの実践者を招き、シミュレーション研究の最前線とその社会実装をテーマとしたミニシンポジウム「エスカレーターから花火大会まで!? マルチエージェント・シミュレーションのビジネス活用事例」を行いました。そのレポートをお届けします。
前編では、滋賀大学データサイエンス教育研究センター准教授の松島裕康さんより、MAS研究の実態とその社会利用、そしてデータサイエンスとシミュレーションの結びつきが持つ可能性についてレクチャーいただきました。
シミュレーションとビジネスの未来
上島邦彦(株式会社日本データ取引所)
「マルチエージェント・シミュレーション(MAS)」とは、人や生物、組織といった複数の主体(マルチエージェント)の相互作用をシミュレーション(仮想実験)することで、現象の背後にある構造を理解したり、その仕組みを解析する手法です。
近年、このMASを大規模な社会課題の解決や、新たなビジネスに応用する動きが活発化しています。例えば、人流シミュレーションを安全な空間設計に活かす事例を筆頭に、金融、IoT、不動産など様々な分野へ展開されています。そして同時に、こうした応用には多くの課題や制約があることも事実です。
こうした現状を踏まえ、本日はふたりのゲストをお招きしてマルチエージェント・シミュレーション研究の最前線と、その社会実装について語り合っていただこうと思います。
まずは、滋賀大学データサイエンス教育研究センター准教授の松島裕康さん。そして、株式会社構造計画研究所の北上靖大さんです。アカデミアとビジネス、それぞれ第一線で活躍されているおふたりの対話から、シミュレーションデータを活かしたビジネスの未来について考えていきましょう。
それではまず松島さん、お願いします。
シミュレーション研究の多様性とその社会実装
松島裕康(滋賀大学データサイエンス教育研究センター 准教授)
松島です。私は現在、滋賀大学データサイエンス教育研究センターでマルチエージェントを用いた社会シミュレーションを研究しています。本日はこの中から、人流シミュレーションと交通シミュレーションについて紹介したいと思います。
そもそも「エージェント」とは何でしょうか。コンピュータ・シミュレーションを行う際には、情報空間に人やモノを表現する必要があります。これはつまり、センサなどを通じて環境を知覚し、それに反応を返すソフトウェアが必要ということです。一般的に、こうしたソフトウェアを「エージェント」と呼びます。特に人工知能研究では「知的エージェント」といって、エージェントの環境との相互作用に最適化や報酬設計といったルールを設定し、いかにして環境に適応するのかが研究されています。そしてこのエージェントが複数存在する場合を「マルチエージェント」と呼ぶわけです。
ではここで、マルチエージェントをイメージするための具体例として「ロボカップ」を見てみましょう。ロボカップはロボットを用いてサッカーを行う競技ですが、この一環としてシミュレーションリーグという、シミュレーション内でエージェント同士が競い合う種目があります。ここでは、エージェント同士の相互作用によって、オフェンスやディフェンスといった競技上のタスクをいかに達成できるのかが問われるわけです。こうした問題の探求はMASの大きなトピックのひとつですね。
他方で、環境やエージェント同士の相互作用から生まれる創発現象も研究の対象になっています。これには多くのモデルが知られていて、空間内にどのように食料が分布しているのかをもとにアリの社会の形成をシミュレートする「Sugarscapeモデル」、衝突回避・整列・接近という3つのルールだけで鳥の群の形成を再現する「ボイドモデル 」、現実社会でも度々問題視される、人種にもとづいた居住場所の偏りを示した「シェリングの分居モデル」などがあります。
また、こうしたシミュレーションを社会実装する動きも顕著です。例えば、コミュニティの人の繋がりを検討したり、物流や製造に関わるロボットの動きを最適化するためにもMASが用いられています。近年では、空港におけるテロを防ぐために警備員のリソースをいかに配分するか、といった問題を「ゲーム理論」を応用して検討する事例もあります。
スムーズな社会をシミュレーションする
松島
こうした社会への展開のうち、私が関わった研究について紹介しましょう。1つ目は、劇場のような建物における会場からの避難について、実際の避難訓練とシミュレーションを用いて検討した研究です。まず、扉を1枚だけ開けた会場で避難訓練を行い、扉付近の人流を計測しました。その後、これをシミュレーションで再現し、開いている扉の枚数によってどれだけ人流がスムーズになるのかを検討しました。
右の図が4枚すべての扉を開放した場合で、赤が混雑しているところ、緑がスムーズに流れているところを表しています。当たり前にも思えますが、扉4枚を開放した場合の方が人流がスムーズになることがシミュレーション上で示されました。これを踏まえて再度、実際の会場で扉4枚を開けて避難訓練を行ったところ、前回の避難訓練よりも短時間で避難が完了しました。このようにシミュレーションは、実際の検証が難しい事例に対して、様々な仮定を試すことができるという点で大きなアドバンテージがあるといえます。
2つ目は、スポーツイベント開催時の関係車両による交通への影響をシミュレーションを使って検証した研究です。過去にもサッカー代表戦の選手団バスが渋滞に巻き込まれるなど、大規模イベント時の交通混雑は問題視されてきました。そこで、どのくらい交通量を抑えれば円滑にイベントを回せるのかを交通シミュレーターで検討しました。ここでは実データとして、国交省が出している主要道路の交通量や時間帯別の交通量のデータを用いました。また、アルゴリズム処理を用いて実測値とシミュレーション値の誤差を最小化することで、再現性を確保しました。
イベントにおける関係車両は、輸送バスやシャトルバス、会場に直接向かう乗用車やタクシーなどを含めて延べ1000台以上の車両が会場周辺の交通に集中することになります。そこで、イベントの時の交通総量が平常時と同じ場合と、平常時の8割に抑えた場合でどの程度混雑度が変わるのかをシミュレートしました。左の図が平常時と変わらない交通量、右の図が平常時の8割に抑えた場合です。赤が一般車両、緑が関係車両を表します。左は会場周辺で徐々に赤が増えて混雑していきますが、右では一定のスムーズさが保たれているのがシミュレーションから確認できました。
こちらは、花火大会による駅周辺の混雑緩和のための人流シミュレーションです。ここでは、花火大会が終わってみんなが一斉に駅に向かったために混雑が発生していました。このようにエージェントの動線が決まっているものは、「ネットワークモデル」を用いてシミュレーションが可能です。一方で建物の構造が人流に影響を与えるような細かいケースでは、「二次元空間モデル」の使用が有効です。
シミュレーションにおける実データの価値
松島
こうしたモデリングやシミュレーションの再現性、妥当性の評価は、エージェントシミュレーションのもっとも重要なポイントです。全体を詳細に設計しすぎると、複雑すぎてシミュレーション結果の分析が難しくなってしまいます。そのため「どんな現象を確認・検証したいか」という目的に合わせて、構築するモデルのどこをシンプルにし、どこを詳細にするかといった調整が必要になります。
また、先ほど紹介した私の研究のように、実データを使うことでシミュレーションの再現性や妥当性を現実と比較することが可能になります。加えて、実データの分析から抽出された特徴を活用することで、再現性の高いシミュレーションを実現できる場合もあります。
例えば歩行者シミュレーションでは、実データの分析をもとに「ソーシャルフォースモデル」という、エージェントの移動速度を決める力学モデルを用いてシミュレーションを行う方法が知られています。他にも経済シミュレーションでは「スタイライズドファクト」という指標が用いられます。これは統計量の特徴を表すもので、ファットテール(価格の騰落率の分布が正規分布図と比べて両端で厚くなること)やボラティリティクラスタリング(価格変動が自己相関を持つこと)などが現実の市場で観測されています。つまり、これらの特徴がシミュレーション上のマクロな視点で表現できているかどうかで、シミュレーションの妥当性を評価するというわけです。
では最後に、ここまで紹介してきた点から、シミュレーションとデータサイエンスの結びつきについて考えてみましょう。最近はセンサーの発達にともなって、様々なデータがどんどん蓄積されています。これらの社会応用としては、統計資料や機械学習への利用がすぐに思い浮かぶでしょう。しかし先ほど述べたように、こうした実データはシミュレーションにおけるモデリングやその妥当性、再現性の向上にも役立つんですね。ですから制度設計支援や行動最適化、戦略立案といったものをどのように進め、評価すべきかを考える上でも、シミュレーションとその手法は重要な示唆を与えてくれるのではないでしょうか。私の発表は以上とさせていただきます。
手をとりあう産業と研究
上島
複数のエージェントを設定する際に、メリハリをつけながら環境的な制約・条件を織り込むことがポイントになるのですね。昨今では「分析から予測へ」とも言われますが、統計解析や機械学習による分類・判定だけではなく、滅多に起きない事象を予測して対応策を立てたい企業が増えそうです。そこにマルチエージェント・シミュレーションの介入点があるのかなと。ちなみに、こうした共同研究というのは、どのような経緯で始まるのでしょうか。
松島
私に関していうと、これまでは自治体と関わることが多かったんですが、今の滋賀大学の研究センターでは企業との共同研も推進しています。そこでは企業側の解決したい課題を伺った上で、どこにシミュレーションが活用できるのかを一緒に探っていくというアプローチが多いです。逆に、データはあるけれど解決すべき課題はまだ見えないというケースもあって、これはなかなか難しいですね。
上島
「お肉はあるけど何が食べたいかわからない」みたいな話ですね。データの入手はどのように行われるのでしょうか。共同研究先の方にご提供いただくのか、それとも研究室内で集めるのか。イベント開催時の交通量の研究では、国交省が公表している道路交通センサスデータを利用したとおっしゃっていましたよね。
松島
そうですね、国交省のデータのように、一般に公開されているものをまずは利用することが多いです。イベントの交通シミュレーションのケースでは、信号機の下に取り付けられた交通量センサーのデータを県警からいただいたり、信号のタイミングの設定を教えていただいたりもしました。
上島
なるほど、さて北上さんにも伺いましょうか。松島さんの研究は、構造計画研究所での取り組みと様々な類似点・相違点があったかと思うのですが、いかがでしょうか。
北上靖大(株式会社構造計画研究所)
ご紹介いただいた先進的な手法やデータを現実の課題に適用することで取り組みの幅を広げていきたいなと思いました。
上島
MASは他のデータ利用の分野と比べて産業分野と研究分野の連携が密で、羨ましいですね。松島さん、ありがとうございました。続きまして北上さん、お願いします。
(後編に続く)
編集:瀬下翔太
協力:森実南
企画・制作:「データ流通市場の歩き方」編集部