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文献目録いろいろ

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矯正院法時代の少年院に関する文献目録

 大正12(1923)年に矯正院法施行に伴い、少年院が発足してから令和5(2023)年に100年となります。  ここに御紹介する文献目録は、矯正院法時代の大正12年から昭和23年までの期間に雑誌等に発表された文献に、矯正院法時代の状況を知る職員がその後に執筆した文献等を加えた目録です。  矯正協会矯正研究室の紀要『矯正研究』No.3に掲載された小島富美子著「矯正院法下の少年院に関する文献目録―少年院制度100周年に向けての基礎資料としてー」から、執筆者自身が当サイトのた

佐野尚

 「監獄の改造に就き或る人の問に答ふ」 (↑クリックするとPDFが開きます)    大日本監獄協会雑誌6号(1巻6号)明治21年10月 佐野尚(嘉永4(1851)年―大正13(1924)年)は大日本監獄協会の創設者の一人で、長く「大日本監獄協会雑誌」の編集を担当、自ら多くの記事を執筆して同誌の内容の充実に努めた。不平等条約の改正に向けた我が国の監獄改良のために差し当たり欧米の監獄制度についての知識が求められる中、フランス語を学んだ佐野は多くの海外文献を紹介したが、この文は

小河滋次郎

「刑の執行の原則は何くにある」 (↑クリックするとPDFが開きます) 警察監獄学会雑誌第1巻第1号 明治22年4月    監獄則(明治22年)及び監獄法(明治41年)の起草に関与するなど、我が国の監獄改良の指導者として著名な小河滋次郎(文久3(1863)年―大正14(1925)年)が内務省に入って3年目の25歳で発表したもの。刑法等に関する論稿も多かった小河が、刑罰についての基本的観点から、懲戒主義と感化主義を斟酌折衷して初めて完全な刑罰執行となること、個人の年齢、罪質

留岡幸助

「感化院設立の急務」 (↑クリックするとPDFが開きます) 監獄雑誌8巻1号 明治30年1月  教誨師として接した監獄を改良し、犯罪者を改過遷善する方途を求めて渡米し、ゼブロン・ブロックウェイ(Zebulon Reed Brockway 1827–1920)のエルマイラ監獄で学んで明治28年4月に帰国した留岡幸助(元治元年(1864)年―昭和9(1934))は、非行少年の感化事業を「一路白頭に至る」仕事(This one thing I do.)とすることを決意した。この

原胤昭

「東京出獄人保護事業創立半年報」 大日本監獄協会雑誌111号(10巻8号)・112号(10巻9号)  (↑クリックするとPDFが開きます) 明治30年8・9月 (監獄雑誌8巻7号 明治30年7月は同内容) この時代に生きた人の中でも際立って波乱に富んだ生涯を送った原胤昭(嘉永6(1853)年―昭和17(1942)年)は、教誨師としての経験を踏まえ、出獄人保護に取り組み、明治30年、1万人に近いとされた英照皇太后崩御大赦による釈放者保護の必要性の高まりを受けて、東京神田区猿

清浦奎吾

 行刑回顧録(上) (下)  (クリックするとPDFが開きます) 刑政48巻5号~6号 昭和10年5~6月 清浦奎吾(嘉永3(1850)年―昭和17(1942)年)は内務省・司法省官僚から出発し、長く司法大臣をし、さらに短期ではあるが内閣総理大臣まで務めた。 この文は、引退していた清浦(当時85歳)による回想の口授を記録したものであり(注)、監獄費の国庫支弁など行刑史上の主要な出来事をほぼ網羅してその経緯を語っている。以下のとおり、大きな記憶違いのない回想となっ

谷田三郎

「<論説> 少年法に就て」 (↑クリックするとPDFが開きます) 監獄協会雑誌33巻10号~11号 34巻1号~4号(大正9年10月~10年4月)(「少年法に就て」法曹記事30巻11号~31巻3号(大正9年11月~10年3月)は同一の講演会における講演記録の体裁をとっており、ほぼ同内容)  谷田三郎(明治4(1871)年―昭和13(1938)年)は、明治38年8月から検事兼司法省参事官、41年3月改正刑法及び監獄法実施準備委員として監獄法施行規則の起草に従事した後、明治4

有馬四郎助

「在監者の日曜日休役論」 (↑クリックするとPDFが開きます) 監獄協会雑誌34巻6号 大正10年6月  有馬四郎助(元治元(1864)年―昭和9(1934)年)は、「愛の行刑」の実践者として名高いが、特に関東大震災の折、被災した小菅監獄から一人の逃走者も出さなかったことで、名典獄とされた。 この当時は日曜には教誨を行うとの規定はあったものの、(注1)日曜日も就業させる刑務所が多かった。有馬は、この文で、祝日のほかに安息の日がないことによって精神は衰え、元気は失せ、体力も減

山岡萬之助

「行刑法規改正の趣旨」 (↑クリックするとPDFが開きます) 刑政35巻11号 大正11年11月  監獄官制を改正し、監獄を刑務所に改める等の改正の趣旨を述べたもので、執筆者を明記してはいないが、改正の精神を語り得る立場にあったのは当時の行刑局長山岡萬之助を置いてはいなかったはずである。単に名称を改めただけではなく、監獄職員の待遇向上等も行い、刑務官が単なる罪人の看守ではなく、積極的に受刑者を指導援助する立場にあることを明らかにし、行刑の本旨が実現されるようにという改正で

正木亮

「累進処遇における責任と自治」刑政47巻2号 (↑クリックするとPDFが開きます) (行刑累進処遇令実施記念号) 昭和9年2月  正木亮(明治25(1892)年―昭和46(1971)年)は大正10年から司法省監獄局に係わり、鹽野季彦行刑局長の下で行刑累進処遇令の起草に当たった。   この文は累進処遇の中核概念である責任と自主性について論じ、行刑の過程を通じて社会の一員として負担すべき責任を自覚させることで社会生活への適応力を涵養するという理想を述べたものである。  

牧野英一

「行刑における技術化、経済化、教育化及び法律化」 (↑クリックするとPDFが開きます) 刑政46巻1号 昭和8年1月  新派刑法理論で知られる牧野英一(明治11(1878)年-昭和45(1970)年)が行刑についての基本的考え方を述べたものである。刑の目的に犯罪者の社会復帰があるという点は誰も否定しないことではあったが、更に教育刑という考え方を採ることで行刑の可能性は広がり、行刑(広い意味での教育)の技術、効率、効果の実証、更にそれに応じた法的枠組みが必要になるとの考え方

はじめに

 矯正協会発行の雑誌は、明治21年の大日本監獄協会発足後直ちに発刊した「大日本監獄協会雑誌」に端を発し、多少の変遷を経て、今日の「刑政」に至っています。  このうち戦前に刊行されたものは矯正図書館のwebサイト上で公開していますが、相当な分量に及ぶ情報への案内として、webサイトで読める文献の中から矯正・更生保護の歴史の上で顕著な活躍をした人物が書いたものに着眼した10選を以下に紹介します。  執筆当時の状況を背景に必要な策を論じたものが主ですが、できるだけ現在の矯正・更