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双極性感情障害について 1

あれは中学校の頃だった

運動は好きだったが親が反対したためブラスバンド部でトランペットを吹くことになった
それまで廃れてしまっていた部活を熱心な山田先生が復活劇を演じ 地区大会で一年時に銅賞、二年時銀賞、卒業年度には金賞を得た
私は部活の中心メンバーとなって部員たちを鼓舞したものだった

小学4年制のときに安田先生から作文を褒められて以来 勉強に興味を持ち学習塾へ通って勉強ばかりしていた僕に 中学時代のブラスバンド部の経験は大きな感情の変化を与えた

あわせて僕の学校は クラスごとの合唱大会が毎年行われ その大会でも指揮者を演じ クラスを優勝に導いたこともあったと自負する

二年時に 勉強の面でも地区で 二番になったことも思い出の一つである

が 
その熱狂も興奮も 秋を越し 冬を迎える頃には消えていった
いきなり 勉強が手につかなくなり 家にいるときは寝てばかりいるようになった

学校では威勢を張って なにもなかったように振る舞ってはいたが 多分友人たちには 私の目から光が失われたことを感じたに違いない

今振り返れば それが私の感情障害の始まりであった

高校入学時に 入学に不安を感じた僕は それまで経験したことのない丸坊主になって 合格通知の看板を眺め ホッとして 体は大きいのに 心が小さくなっている自分を 今もはじている

それまでの勉強は 詰め込みが主だったため 勉強の仕方を知らなかった僕は 高校に入って初めて 勉強のやり方を教えてもらい 学ぶことの楽しさを味わったことは 今の生活の中にも生きている

再び自信を取り戻した僕は 部活には所属することなく 勉強に励んだ

しかし またそれはやってきた

三年生のときの 英語の教師との 確執であった
僕の とことん突き詰める姿勢に その教師は 反感を持って接した
そのために 教室のみんなの前で 大きな声で議論になった

反抗心旺盛だった僕は その後職員室に呼ばれ 反省させられた

激情的な僕の態度は 感情障害の躁状態であった

反省を促された私は 急に元気がなくなったのだ
それからの僕は 浮き沈みの多い状態が続く

大学は医科大学を目指し 二年生のときには 判定がA-くらいだったものが
三年生の後半には B担ってしまった

焦ってしまった僕は 突然進路を 福島大学の経済学部に変更した

その頃の受験は いい加減だったというか 緩やかなものだったらしく
入学試験は 三門中一問だけを完璧に応えて あとは白紙で出したのだが
不思議なことに合格してしまった

僕は子供の頃から 大正生まれの父の影響で 多くの者達が読んでいた 旭屋毎日などを読まず サンケイを読んでいた

現在は横並びの紙面しか作らなくなったが その頃のサンケイは 見事に世界情勢を概観して 読者に良質な情報を与えていたと思う

しかしそれも 戦後教育の行き届いてしまった その頃の教師たちからは かなり疎まれたものだった

君島という現国の教師とは 演劇部の手伝いをしたときからの 因縁があった 後に彼との確執は決定的になるのだが それは後段に譲る

ガチガチの 戦後民主主義者であった君島は 戦前を全否定し 同世代の「三島由紀夫」を こき下ろす姿に 反感を禁じ得なかった

だが 唯一の救いだったのは 高橋校長の存在だ
彼は 公職追放にあったのだが その後 努力のかいあって教職に復帰した 戦前を知る腹の広い人だった 

今でも覚えているのは ある雪の日の登校時に 朝早くから校門を雪かきする校長の姿だ 
彼は どんな生徒に対しても 公平であり友好的であった 
その姿に共鳴していたのは 君島と同世代だったが 温和で保守的な存在であった漢文の渋谷教諭と英語の三瓶ティーチャーだけだった

彼ら数人だけが 雪かきをしていることにいたたまれなくなった僕は スコップを持って手伝いをしたものだった

革新が美しく 進歩的で これからの次代を切り開くとばかり思っている その次代の風潮は 僕には違和感と世代の断絶を想起させた

話は進む
大学に合格し 喜び勇んでキャンパスに踏み込んだ僕に 中核派の存在は これこそ的だと確信させた
キャンパスの後ろに呼び出された僕は 連中と揉め 議論となり 一人を押し倒した
その後の彼らの報復は 想像できるであろう

私は失望し 入学を諦めた


大学をやめた僕は その頃司法書士事務所を開設した兄のもとに行った 池袋といえば 今やアジアマフィアの巣窟であるが その頃は サンシャイン60などが立ち並ぶようになり 開発が進む大都市一歩手前の街だった

仕事は簡単だった 書類を作り 朝一番に法務局に書類を投げ込むのである
兄はその頃盛んに行われていた 抵当権の移転登記 つまり 金貸しの追い貸しに協力していた

バブル後半で まだまだ株価が上がり 地価が上昇することに目をつけたことは良かったが 御存知の通り バブルは崩壊し その後は後始末に追われることになったことを今でも覚えている

3年間池袋にいたが 出歩いたのは 居酒屋と バーぐらいなもので 多くのことを知らずに東京での生活をしたことを 今でも惜しいことをしたものと思っている

またまた 躁状態がやってきた
一念発起をして 医大に入りたいと考え 彼女のいる新潟の予備校に通うことになる
とは言っても それは今となっては言い訳で 彼女目的だったことを告白せずには嘘になる

2年の月日は わたしたちを 幸せからどん底もをも 経験させた

私は逃げるように街を去り 
今の奥羽大学に入学した
私立の医大は 僕には楽勝だった
2年間主席で過ごした
アメリカンフットーボールもやったし 音楽も楽しんだ

彼女との交際は いろいろなことがあったけれど順調であった

しかし ここで彼女は親の言うことを聞いて お見合いをした
僕は再びどん底を味わう

なにかにしがみつきたかった僕は 3年時に 山形から入学してきた ひとみと出会った
入学後突然友人たちと 僕の家にやってきた彼女は 僕の車のワイパーに アーチェリーの弓矢につけた アパートの鍵をおいていった

次の日 鍵を返そうとした時 涙を流しながら拒絶した彼女の目は今でも忘れられない

ある日 彼女は僕をアパートに呼び 手作りのカレーをごちそうしてくれた
その夜二人は結ばれた

彼女の白い いや透き通るように青い その姿は脳裏を離れないが
彼女は 2週後に 天国の人となる
第一発見者であった僕は 警察と消防の対応に奔走したが 
学内での噂に耐えきれず 再び学問を放棄してしまった

そして 長い青春時代をともに過ごした 彼女とも別れることになった

苦しい胸の内は 誰にも話せず 僕は底の底まで落ちていった

帰るところは一つしかなかった もちろん実家の旅館である

毎日のように酒を飲んだ 昼も夜も 眠ることもいとわず飲み続けた

体調に変化が現れたのはその頃だ 僕の皮膚に赤いイボのような 発疹が現れたのだ
かかりつけ医の 本田先生を訪れたが埒が明かず 皮膚科を紹介されると それは内科的な問題で 放置すれば死に至ると脅され 本田先生の本格定期な治療が始まった

急に 僕は現実に目覚め 酒を飲まなくなり 市役所のサークル活動を始めるようになる
また僕の乗るジェットコースターは ガリガリと音を立て上昇していく

サークル活動で年長者であったため 再びリーダーを任されてしまい キャンプやナイトウォークなどを企画し 実行する
2年間の活動であったが 最後がまずかった

お別れの会の参加者を募っていた時 その女は現れた 今まで活動に参加していなかった彼女が いきなり僕に近づいてきた
ドライブにつ照れていってと言っては ベタベタと僕に触れる 断り続けていた僕だが 男女の間には必ずその日がやってくる

行為が行われ数日が立った後 別れを確信した 
性病を感染してしまったのだ
彼女は有名な 公衆便所だった 女を武器とし 多くの男達と交わっていた それも看護師であるはずなのに 性病持ちとは


サークル活動をしていると 多くの団体からの誘いがある 青年会議所と消防団には地元の若者としては 参加せざるをえない
割愛するがそこでも僕は多くの活躍をしたものだった


前半の書物はこのくらいにするが 双極性感情障害とは 厄介な病気である

何もない 凪の時期と ジェットコースターのような 躁状態 どん底の うつ状態が繰り返される
その間に関わった人間たちによって 感情が左右され ハイにもどん底にもなってしまう

その頃は治療をしなかったため 多くの人々に迷惑をかけたが 更に私の人生には 後半で話す喜劇や悲劇が待ち受ける 

続きは次の機会にし 
今回は ここまでとする


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