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【ホラー小説】eaters 第5話

あらすじと各話は、こちらから

 新薬の説明を受けた時、瀬奈の将来に希望の光が灯った。
 それと同時によぎったのは、小百合自身のことだった。
 
 自分だけの時間を持てず、友人とも会えない。
 働くことすらできない。
 かといって、瀬奈を重荷に感じているわけではない。
 
 ほんの少しでいいから、自由になれる時間が欲しかった。
 
 薬の副作用、瀬奈の将来、夫の負担、そして……解放される自分。
 それらを天秤に掛けた小百合は、夫に相談もせず新薬を希望した。
 
「お父さんに……何が分かるっていうの。私と瀬奈の苦労を……お父さんはちっとも分かってない!」
 
 今でも瀬奈を一番に思っているのは変わらない。
 自分のことは、ほんのわずかだった。
 
 そのわずかな思いを夫に言い当てられてしまった小百合は、これまで胸の奥に隠していた怒りが込み上げて、わめき散らした。
 
 薄っすらと涙を浮かべる小百合に、良一は何も返せなかった。
 ずっと今日まで何もかも、妻に任せっきりだった。
 唯一できたのは、少しでも残業をして金を稼いでくるくらいだ。
 
 二人の間に沈黙が流れた。
 
「明日、瀬奈を病院に連れていくから」
「……そうしてくれ」
 
 良一は思い詰めた顔で「一言、先に相談してほしかった」と残していった。
 それに小百合は黙っていた。
 
 自分と温度差のある夫に相談したところで、何も変わらない。
 こんなふうに反対されただけだ。
 
 その頃、洗面所にいた瀬奈の歯ブラシを握る手が止まっていた。
 聞こえてきたのは、両親の会話。
 瀬奈は、おそるおそる鏡に映る顔に目をやった。
 
 
 翌日。
 小百合は瀬奈を病院に連れてきた。
 瀬奈は帽子と眼鏡、手袋をしていないが、長袖と長ズボンにマスクをしている。
 
 病院には病人しかやって来ない。
 小百合は瀬奈に、病院と人が密集する学校だけは、今まで通りにマスクをするよう言っていた。
 
「昨日、瀬奈が夕飯を食べたあと……吐いたんです」
 
 鮫島に食事の内容を訊かれて、夕食の献立を正直に伝える。
 肉と魚しか食べなかった瀬奈に、野菜やご飯、味噌汁を食べさせた。
 
 今日も検査があると思い、朝食を抜いてはきたが、腹を空かせた瀬奈は牛乳を飲んでいた。
 牛乳だけだったせいか、今朝は吐いていない。
 
 
 検査の結果、異常は見付からなかった。
 
「もしかしたら、まだ肉や魚、卵や乳製品などの動物性たんぱく質以外は、身体が受け付けないのかもしれません」
 
 まだ新薬を打って間もないのもあり、動物性たんぱく質以外の食べ物に過剰反応している可能性がある、と鮫島が言った。
 
「……そんな!」
「無理をさせず、しばらく様子を見ながら少しずつ慣らしていきましょう」
 
 そう言ってから、鮫島は瀬奈の顔をジッと見つめた。
 
「マスクは外そうか」
 
 免疫系の数値も正常のため、日常にひそむ様々な菌に慣らしていく必要がある。
 瀬奈がマスクを外すと、小百合もそっと外した。
 
「次回は予定通り、一か月後に検査をしましょう。それまで何かありましたら、すぐに来てください」
「分かりました。あの、それと……」
 
 小百合は、スーパーでの出来事を相談しようとした。
 
 だが、あのあと、家で金魚を見つめていた瀬奈の瞳は黒くならなかった。
 スーパーに行ったのは、薬を打ったその帰り。
 もしかしたら、あれも過剰反応の一つだったのかもしれない。
 
 それでも、鮫島に相談したほうがいいのか?
 瀬奈がいる前で?
 
 瀬奈には新薬の詳しい説明をしていない。
 できるわけがなかった。
 夫に話すだけでも勇気のいる内容だ。
 
 できることなら新薬が完成して副作用が解消されるまで、小百合は瀬奈に知られたくなかった。
 
「い、いえ。なんでもありません」
「では一か月後に」
「ありがとうございます」
 
 
 病院からの帰り道、赤信号で車が止まった。
 
「お母さん、ごめんね」
「……何が?」
 
 信号が青に変わる。
 車を走らせても、瀬奈は黙ったままだった。
 
「瀬奈は何も心配しなくていいの」
「……うん」
 
 瀬奈は、昨夜の両親の会話を思い出していた。
 
 洗面所の扉も閉めていたはずなのに、なぜか離れた場所にいた両親の声が聞こえてきた。
 最初から最後まで、すべてが……。
 
「お腹、空いた」
「今日も朝食抜いてるもんね。帰ったらすぐにご飯にしよう」
 
 
 家に着いて、遅い朝食を兼ねた昼食の準備をする。
 ちゃんとした食事を作るのは、小百合の分だけだ。
 
 瀬奈には、カレー用に買っておいたサイコロ状にカットされた肉。
 火を通す必要もない。
 瀬奈が今日も「生がいい」と言ったからだ。
 それに生肉や生魚は、夫がいない間しか出せない。
 
 いくら動物性たんぱく質しか受け付けないといっても、肉だけでは栄養もかたよってしまう。
 小百合は瀬奈に、ゆで卵とヨーグルトも用意してやった。
 
 向かいで食事をする瀬奈の姿は、いやでも目に入ってくる。
 
 黒い瞳。
 鋭くとがった歯。
 
 生の肉を食べる時だけは、目をそむけたくなる娘の姿だ。
 だが、自分もまた慣れていくしかない。
 
 小百合は息をつきながら、目の前の食事を少しずつ口にしていった。
 
 
 昼食の後片付けをしたあと、小百合は家の中を見渡した。
 つけっ放しだった空気清浄機の電源を消してまわる。
 
 今日は外も涼しそうだ。
 一度も開くことのなかった窓を開けると、涼しいそよ風が頬をなでた。
 
 これからは毎日、隅々まで除菌しなくてもいい。
 車の洗車や、車内の掃除もそうだ。
 夢のようだった普通の暮らしができると思うと、肩の力が抜けていった。
 
 軽く掃除したあと、家中の除菌グッズをまとめて納戸なんどにしまう。
 まだ捨てるわけにはいかない。
 いつ、何が起きるか分からないからだ。
 納戸を見つめ、再び必要になる日がやってこないのを願いながら扉を閉めた。
 
 
 夕方前になって、小腹を空かせた瀬奈がリビングにやって来た。
 昼の残りのゆで卵と、チーズと牛乳を出してやる。
 
「瀬奈。明日、お出掛けしようか」
「本当?」
 
 瀬奈の顔に、はち切れそうな笑みが浮かんだ。
 
 瀬奈が外でも着られる服は、ほとんどが長袖と長ズボンだった。
 半袖は家の中だけで着るTシャツしかない。
 外に出掛けても恥ずかしくない服が必要だ。
 半袖にスカート、靴下、それに合わせた靴。
 
 これからも永遠と続くはずだった出費がなくなると思えば、痛くはない。
 
 それに、瀬奈の服を買い揃えるためもあるが、外の空気にも慣らしておかなければならない。
 本当ならもう一日くらい、様子を見たほうがいいのかもしれないが小百合は、はやる気持ちを抑えられずにいた。

 夜になって、仕事から良一が帰ってきた。
 
「瀬奈は、どうだった?」
 
 昨日の今日で、本人なりに心配していたのだろう。
 
「食べ物だけ気を付けていれば、問題ないみたい」
「……ならいいが」
 
 その顔には、まだ不安の色が残っている。
 
 全員が揃った食卓で、良一は瀬奈の食事に目を見張った。
 
「なんで瀬奈だけ、おかずばっかりなんだ?」
 
 瀬奈の食事は玉子焼き、ウインナーのチーズ焼き、魚のすり身のすまし汁と唐揚げだ。
 
「今は……これしか食べられないの」
 
 小百合が言うと、良一は「そうか」とだけ返した。
 米やパン、野菜などが食べられないのだから、しかたがない。
 良一は今も眉をひそめている。
 
「でも、大丈夫。そのうち、ちゃんと普通にご飯も食べられるようになるから」
 
 無理に笑顔を作った小百合は、自分にもそう言い聞かせた。

◆第6話は、こちらから


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