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【ホラー小説】eaters 第2話

あらすじと第1話は、こちらから

 異常なまでの黒い瞳に、小百合は言葉が出なかった。
 夫に相談もしなかったせいか、不安で押し潰されそうになってくる。
 
 少しして瀬奈の痙攣が治まってきたが、瞳の色は黒いままだ。
 すると、瀬奈は突然、むくりと起き上がった。
 マスク越しで何か匂いを嗅ぎつけたかのように、クーラーボックスに目を向けている。
 
 鮫島はクーラーボックスから、タッパを取り出した。
 手の平くらいのサイズだ。
 フタを開けて差し出すと、瀬奈はマスクをぎ取って、鮫島からそれを奪い取った。
 
 両手でしっかりと持って、一心不乱にタッパへ顔を突っ込んでいる。
そこに入っていたのは、焼かれた肉の塊だった。
 
 まるで犬食いだ。
 最後の一欠けらを口にしながら、瀬奈が顔を上げた。
 クッチャクッチャと音を立てて肉を噛む歯の先が、鋭くとがっていた。
 
 黒い瞳と、牙のような歯。
 もはや人ではない、何かの姿だった。
 
 鮫島は空のタッパを診察台に置き、肉汁のついた頬をガーゼで優しく拭いてやった。
 瀬奈の瞳が元に戻っていくと同時に、青白かった顔色は不思議と血色がよくなっていた。
 
 変化が見られたのは、それだけではない。
 
 家以外では、ずっとマスクをしていたせいで、頬とアゴは肌荒れを起こしていた。
 赤くなっていたはずの肌は、今では薄っすらと赤みが残っている程度で治りかけている。
 
「瀬奈ちゃん、気分はどうかな?」
「なんか、すごく……元気になった気がします」
「それはよかった。それじゃ、ちょっと診察するね」
 
 目と口の中をて、最後に脈を確認している。
 口を大きく開けた時、歯の先も元に戻っていた。
 
「沼澤さん、もう大丈夫ですよ」
 
 これからは帽子や眼鏡、マスクと手袋も必要なくなる。
 瀬奈は眼鏡を取って、手袋も外した。
 一日に何度も手を洗っていたせいで、荒れていた手の甲の赤みも薄っすらと治りかけている。
 
 瀬奈の変化を目の当たりにした小百合は、帽子を握っていた手を震わせていた。
 いくら飛躍的な効果があるといっても、こんなすぐに現れるとは思ってもみなかった。
 
「これからはマスクなしで普通の生活ができますが、念のため学校は一週間ほど休んで様子を見てください」
 
 その間、問題があればすぐに病院に来るよう、鮫島が言った。
 特に問題が見られなかった場合は、一か月後に定期検査だ。
 
「先生、ありがとうございました」
「あぁ、それと先程説明した通り、注意事項も守ってくださいね」
 
 診察室を出たあと、小百合達は会計で呼ばれるのを待っていた。
 待合室は受付と会計を待つ患者で混み合っている。
 いくら普通の生活ができると言われても、小百合は気が気ではなかった。
 
「瀬奈、マスクだけは付けてようか」
「え? でも先生が、もう付けなくていいって……」
「ここは病院だから、一応ね」
 
 周囲を気にする小百合に、瀬奈はしかたなくマスクをした。
 小百合もまだマスクを付けたままで、見えない脅威から娘を守るためだった。
 
 病院から外に出ると、瀬奈はマスクを外した。
 顔に降り注ぐ太陽の日差し。
 短い髪の毛先を揺らしながら、頬を撫でる風。
 大きく吸い込んだ外の空気と匂い。
 初めての感覚と、身体の内側からみなぎる力に、瀬奈は空を見上げた。
 
 車の運転席に乗り込んだ小百合は、そっとマスクを外した。
 小百合もマスクをしないのは、家と車の中だけだ。
 
 赤信号で車を止めた時、新薬のことが頭によぎる。
 あの新薬に使われていたのは、ホホジロザメの遺伝子だった。
 
 人間とホホジロザメでは染色体の数が違うなど、難しい説明はよく分からなかったが、小百合は何かで『サメは病気にならない』と聞いたのを思い出した。
 それを口にした時、鮫島はサメでも病気になると言った。
 
 だが、ホホジロザメは治癒力が高く、それが噂の元になったのだろう、と付け加えた。
 遺伝子工学でも、ホホジロザメの遺伝子を使った研究は盛んに行われているそうだ。
 今回、瀬奈に注射した新薬『スクアリー』もその一つだった。
 
 ただし、今も課題が一つある。
 副作用だ。
 
 ・血の匂いに敏感になる
 ・生肉、生魚を好むようになる
 ・火を通したものではなく、生食の時だけ瞳と歯に変化が見られる
 
 現在、分かっている副作用は、この三つ。
 
 注射した直後、瞳が黒く染まり、牙のような歯で肉をむさぼる娘の姿が瞼の裏に焼き付いて離れない。
 
 小百合は普通の暮らしを願っただけだった。
 ささやかな願いの代償は、もしかしたら……。
 
 あの選択が正解だったのか、間違いだったのかは分からないが、もう遅い。
 新薬は、瀬奈に打たれてしまったあとだ。
 信号が青に変わり、車を発進させても小百合は思い悩んでいた。
 
 そんな小百合とは打って変わり、瀬奈は晴れ晴れとした表情で窓の外を眺めている。
 注射を打ってから、なんだか身体の調子がいいように思えた。
 今なら、その辺を駆け回れそうなくらいだ。
 
「お腹、空いた」
「今日は病院だから、朝食も抜いてたもんね」
 
 今朝から瀬奈が口にしたものといえば、病院で食べたわずかな肉の塊だけだ。
 
「お昼も近いから、スーパーで買い物して帰ろうか」
 
 スーパーでの買い物も、混み合う週末は避けていた。
 毎週月曜と週末前の木曜。
 スーパーに行くのも週に二度だけだった。
 
 月曜の今日は、瀬奈の病院と重なってしまった。
 家から病院までは車で一時間ほどかかる。
 
 小百合は家に瀬奈を送り届けて、途中にある行きつけのスーパーに戻るつもりでいた。
 だが、瀬奈は新薬を打ったあと、調子もよさそうに見える。
 今なら瀬奈を車に乗せたまま、スーパーに寄っても問題ないだろう。
 
 小百合はスーパーの駐車場に車を停めた。
 クーラーを付けた車のエンジンは、掛けたままだ。
 
「瀬奈は車で待ってて」
「私もスーパー行きたい」
「でも……」
「先生だって、言ってたよ」
 
 家に閉じ込めておいたままでは、何も変わらない。
 これからは普通の生活が待っている。
 来週、学校に行くまで外の空気に慣らしておく必要があるのは、小百合も分かっていたはずだった。
 
「パパッと買い物するだけだからね」
「うん!」
 
 瀬奈にとっては初めてのスーパーだ。
 店に入って最初に目に飛び込んできたのは、陳列されている野菜や果物など。
 小百合の隣で瀬奈は、あふれるほどの商品に目を輝かせている。
 
「お昼は何が食べたい?」
 
 店内を歩きながら小百合が訊いた。
 いつの間にか、隣にいたはずの瀬奈がいない。
 
 慌てて姿を探すと、通り過ぎてきた魚売り場の前に瀬奈がいた。
 立ち止まったまま、氷の上に並べられた魚をジッと見ている。
 
「魚が食べたいの?」
 
 魚売り場まで戻ってきた小百合に、瀬奈は魚に伸ばそうとした手をピタリと止めた。
 そして、ゆっくりと小百合のほうへ顔を向けた。
 
「…………っ!」
 
 小百合は言葉を失った。
 ドクンと大きく脈打つ心臓に、全身が震えてくる。
 
 瀬奈の瞳は、黒く染まっていた。


第3話は、こちらから


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