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【ホラー小説】eaters 第4話

◆あらすじと各話は、こちらから

 空が夕闇に染まりだした頃、外から車のドアの閉まる音が聞こえた。
 夫の良一は商社マンで、いつも残業で帰りが遅い。
 この日は早めに帰ってこられたようだ。
 
 瀬奈の治療費は指定難病で上限もあるが、入院すると食事代などは別に掛かる。
 一日に何度も手を洗い、洗濯の量と異常なほどの掃除、何台も置いている空気清浄機の電源は入れっ放しだ。
 ばかにならない水光熱費、洗剤や除菌のための出費、制服とスーツのクリーニング代。
 
 車も小百合が使用するのと、夫の通勤用で二台ある。
 学校の送り迎えや病院との往復、良一の通勤で掛かるガソリン代。
 授業に遅れている瀬奈には、オンラインの家庭教師もつけていた。
 
 瀬奈の症状がいつ悪化するか分からず、小百合は家を留守にもできない。
 沼澤家の家計は、良一の稼ぎにゆだねるしかなかった。
 
 それも分かっている良一は、あえて残業を増やしていた。
 
「ただいま」
「おかえり……なさい」
 
 スーツの上着を着たまま入ってきた良一に、小百合が顔をしかめた。
 
「あ、あぁ、ごめん」
 
 良一は外に出て、上着を脱いで裏返しにしてから戻ってきた。
 これも沼澤家のルールだった。
 少しでも外から雑菌を持ち込ませないために。
 
 今日からはそれも必要なくなったが、小百合は思わず顔に出してしまった。
 自分達は常に気を付けているというのに、夫の意識の低さには呆れてしまう。
 良一は職場や取引先など、毎日、さまざまな人と接触している。
 小百合にとっては、夫の帰宅も脅威の一つだった。
 
「手洗いとうがい、お願いね」
「あぁ、分かってるよ」
 
「それとシャワーは、今じゃなくてもいいから」
「え? だっていつも……」
「詳しい話は……あとでするから」
 
 良一は不思議そうな顔でクリーニング専用の袋にスーツの上着とネクタイを入れたあと、洗面所に向かった。
 夫の背中に、小百合の口から重いため息がもれる。
 
 いくら空気の綺麗な町外れでも、窓はけっして開けない。
 生肉、生魚、生卵を瀬奈に食べさせないよう、沼澤家の食卓にはそれらも上がらない。
 毎日、服用している抗菌薬と、月に一度の点滴。
 そこまでやっていても防げない時がある。
 
 今日からは、それも必要ない。
 一度着るたびにクリーニングに出していたのも、これで最後だ。
 小百合は、クリーニング袋の口をきつく縛った。
 
 食卓で小百合と瀬奈は、着替えた良一が席に着くのを待っていた。
 
「お、なんか今日は顔色がいいみたいだな」
 
 良一が瀬奈の顔に気付いた。
 今朝まで赤くなっていたはずの頬とアゴは、跡形もなく治っている。
 
「うん。今日ね、新しい薬を注射してもらったの」
「新しい……薬?」
 
 何も聞かされていなかった良一は、隣に顔を向けた。
 
「お父さん、その話はあとで説明するから、先にご飯にしましょう」
「あ、あぁ」
 
 小百合は、瀬奈のいないところで新薬の話をしたかった。
 
 家族全員で「いただきます」と口を揃える。
 献立は焼き魚、根菜と鶏肉の煮物、豆腐とほうれん草の味噌汁に漬け物。
 
 瀬奈の食事をする姿を夫に見られるのは不安だったが、魚はしっかりと火を通している。
 昼食の時も、それは確認済だ。
 
 静かな食卓で突然、バリバリと音がした。
 瀬奈が、箸で持った焼き魚を頭からかぶり付いている。
 魚の骨が砕ける音だ。
 
「瀬奈!」
 
 凍り付いた顔の小百合に、瀬奈は不思議そうに顔を上げた。
 
「魚は……骨を残して食べないと、喉に引っ掛かるでしょ?」
「大丈夫だよ。ほら」
 
 瀬奈は平気そうに、なおも頭にかぶり付いた。
 バキバキと骨の砕ける音が響く。
 
 瞳の色と歯の先に変化はない。
 ちゃんと箸も使っている。
 瀬奈の食べる様子だけが異様に映った。
 
「瀬奈、お願い。普通に……食べてくれる?」
 
 小百合は隣を気にしながら言った。
 良一は言葉も出ないまま、瀬奈に目を見開いている。
 
「……うん、分かった」
 
 良一の目も気にしてか、瀬奈は骨を避けて白い身だけを口にした。
 
 それからも瀬奈は、魚だけを食べ続けている。
 魚の前に食べたのは煮物の鶏肉だけだ。
 茶碗に盛ったご飯も、味噌汁も、まったく手を付けていない。
 
 昼食もそうだった。
 生の鮭の切り身と、ムニエルしか口にしなかった。
 
 あの時は、生魚を食べる瀬奈の姿に動揺していたせいで、小百合は何も言わなかった。
 だが、今は違う。
 夫がいる。
 
「煮物の野菜も、ご飯も食べないとダメでしょ」
「食べたくない」
「元気になったんだから、好き嫌いしないでちゃんと食べて」
 
 肉や魚以外も食べてもらわなくては困る。
 夫の目を気にしている小百合に、瀬奈はしかたなく野菜を口に運んだ。
 
 
 夕飯も終わりに近付いてきた頃、突然、瀬奈が口を手で押さえた。
 そのまま席を立って、トイレに駆け込んでいく。
 
「瀬奈! 大丈夫? どうしたの?」
 
 小百合がトイレの前にやって来ると、ドアの向こうから吐いている音が聞こえた。
 変なものは食べさせていない。
 それなのに……なぜ?
 広がる不安に、小百合はドアの前でうろたえていた。
 
 しばらくして、ドアが開いた。
 
「お母さん、ごめん。なんでもないから、もう大丈夫だよ」
「なんでもないワケないでしょ! 瀬奈、吐いてたの?」
「……うん。ちょっとだけ」
 
 もしかしたら、これも副作用なのだろうか?
 
「明日、また病院に行こう。今日はもう、歯を磨いて寝なさい」
「……うん」
 
 小百合だけが席に戻ると、良一の顔には不安の色が残っていた。
 
「まさか、新しい薬が合わなかったんじゃないのか?」
「そのことで、お父さんに……言わなきゃいけないことがあるの」
 
 小百合は瀬奈に注射した薬について、小声で説明した。
 
「なんだって、そんなサメの薬なんかを! おまえ、正気か?」
 
 良一が声を荒げた。
 ホホジロザメの遺伝子が使われていて、認可もされていない薬。
 どうみても怪しげな薬にしか思えなかった良一は、耳を疑っていた。
 
「大きな声を出さないで。効果があったのは、お父さんも気付いたでしょ?」
 
 瀬奈は顔色もよくなって、顔と手も肌荒れの痕すら残っていなかった。
 それを目の当たりにした良一は、言葉を詰まらせていた。
 
「それにもう、あんな格好をさせる必要もなくなるし、学校でも友達ができて、一緒に遊ぶこともできるの」
「だからって……」
 
 瀬奈に普通の学校生活を送らせてやりたい。
 新薬を希望したのは、それが一番の理由だった。
 
 治療費と余計な出費も減る。
 良一も無理をしてまで残業する必要もなくなる。
 小百合は、相談もせずに新薬を投与してもらった理由を並べていった。
 
 黙って聞いていた良一が、ボソリと口を開いた。
 
「おまえ、自分が楽をしたいから……じゃないのか?」
 
 小百合の心臓が、ドクンと大きく脈打った。

◆第5話は、こちらから


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