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逃げるな

 そこはいくつかの小さなホールが入った総合施設のようなもので、何らかの演奏会やワークショップ、講演会などを開ける場所だった。やや古いけれどなめらかな曲線を描いた外観ときちんと磨かれた床や階段には人と人との交流の足跡が残っていて、文化的で社会的な場所であることが見てとれた。
 私はというといつ買ったかも覚えないくたびれた白色のTシャツとジーパンという出で立ちで、スーツの群れに紛れていた。群れはとある一室に向かって並んでいて、立てかけられた看板には「就職説明会」の文字があった。やがて列は流れ、入学式や卒業式のように並べられたパイプ椅子が、スーツの大学生たちとちぐはぐな格好の私で埋まった。
 
数時間すると再び部屋の扉が開き、人々は吐き出されるようにして外へ出ていった。何を聞いたかもわからぬまま私もそれに続き、重たい話でいっぱいになった頭を抑えた。一緒に参加していた同期や後輩たちが後ろを歩いていたので聞き耳を立てると、何やら真剣な話をしていた。

施設の入り口まで流されるままに出てみると、大学生たちはめいめい仲の良い友人らと固まって話しはじめた。どうやらバスを待っているらしい。
しばらくすると説明会で話していた若い女性と初老の男性が現れた。就職相談員として話を聞いてくれるらしい。私は就職に対して何にもイメージができなくて、話せることもないから周りの会話にぼんやりと耳を傾けていた。「ここの企業がいいが倍率が高い」とか「知り合いがいいと言っていたからここにしようと思う」だの小耳に挟みながら、「へえそうなんだ」ぐらいの感想しか出なかった。もう3年生の冬だというのにあまりにも他人事である。
明らかに周りの空気と浮いている私に、男性の相談員が寄ってきて「何か困っていることはあるか」と聞いた。私は何も言えないどころか、何か、本当に、自分の全てが間違っているような気がした。
「ああ、ええ大丈夫です」
そう曖昧に笑う私がよっぽど気に入らなかったのだろう。男性は私の事情を根掘り葉掘り聞くと、親身ではないアドバイスを厳しく投げつけてきた。私の目はもう渦を巻いてぐるぐるで、頭の中は半狂乱だった。私はとうとう彼に何もいうことができず、トイレへと走り出した。
「なぜ逃げるんですか」白熱した表情の男性は、なぜか周りの人を数人引き連れて後ろを追ってきた。まさか追ってくると思わなかった私は、「お手洗いです!」という一言すら言えず、奇声をあげ、叫びまくり、女子トイレの個室に飛び込んだ。

「逃げるなよ」

脳裏にその言葉が反響してやまないうちに、浅い自らの呼吸音で目が覚めた。嫌な汗が額に浮かんでいるのがわかった。

なあんだ、全部夢かとほっとできるほど状況は良くない。実際、私は就活を始められていない。全く自分の行く先が見えない。
高校から専門学科で、大学もそのままの分野に進学した。推薦入試だったから、教授の前で夢を語ったことがあるし、やりたいことも、ほしいものも、なりたい姿もある人生だったはずだ。でも今こんなにも社会の歯車になる現実的な人生が描けない。

大学生になって始めたアルバイトは全部続かなかった。それにはミスばかり繰り返したり、何度やっても仕事に慣れなかったり、職場の人と上手くコミュニケーションできなかったり、ひどい疲れとか絶望で休んでしまったりする自分自身の課題がたくさんあった。端的に名前をつけるとADHDと精神疾患だ。

社会に出たくないわけじゃないのに、「逃げるな」と言われてしまう。できることだったら何でもやるのになあ。できることしかできないから、逃げてるのかもしれないなあ。

___逃げることにだって、勇気は要るんだよ___
月島は高校生活から逃げて、きっと何かから逃げなかった、のだと思う。その何かは今言葉にすることはできないけれど月島が自分の中で大切に守り抜いてきたものなんだと、私は信じたいと思った。

藤崎彩織 「ふたご」

人生で何度も「逃げるな」と言われたことがあるけれど、その度にこの言葉に縋って生きてきた。そうやって自分を許さなければ、死んでしまうところだったから。傍から見たらそれすらも傲慢で、開き直った「逃げ」だとしても、私は私だけが知っている「逃げなかった自分」を愛したいと思う。
そうやって自分を小さく小さく許した果てに、私らしく生きる道が見つかるのではないかなと期待している。


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