「窓口」ではなく、「銀行そのもの」になりたい。通訳を評価されるもあまり嬉しく思えない自分。

最近仕事で褒めていただくことが増えてきた。

大変ありがたいことなのだが、正直あんまり嬉しくない。

なんか、それは別に大したことじゃないんだよね、、、もっと違うことで評価されたい!と思うのだ。

褒められることというのはちなみに、仕事でよくやる技術通訳と技術者と偉い方達の間の橋渡に関してだ。

外資系の日本法人に勤めているからか、海外のチームやお客様とお話しすることが少なくないのだが、その際によく技術通訳をする。

自身は仕事柄、技術に明るいのだが、たまたまバイリンガルであることもあり、新たな技術を学ぶ時は大体日本語と英語で学ぶ。

そのため日本ではかなり苦戦する方の多い、技術的な通訳が自身はあまり苦にならないのだ。

ただこの、翻訳者けん、技術者というのがなかなか手に入らないらしく、かなりお褒めの言葉をいただける。

通訳はできても、ミーティングでいろんな人の顔を立てたり、でしゃばりすぎない、適度なタイミングでフィードバックをするなど、ファシリテータとしてもなかなか良いらしい。


ありがたいが、あんまり嬉しくない。


あなたがいたから本当にこのプロジェクトはうまくいった、

いなかったらどうなってたことか、、、


など声をかけていただき、メールなどでも最初は若手そうだし、、?とメールの宛名に含まれないのだが、ミーティングの後から私の名が最初から二番目ぐらいに入る。


いいのだけど、何か違う。


何が違うのだろうとかなり長い間モヤモヤしていたのだが、最近その答えがふっとわかった。


「人の」言葉を「通訳」する媒体として見られているのがどうしても嬉しくないのだ。

確かにいくつかの言語を交互に操るのは難しいかも知れない。だから、それができる人たちは重宝されるのかも知れない。

そんな仕事に意義を感じ、喜びを感じる方も多くいらっしゃると思う。


ただ、私にとっては言語は「ツール」でしかなく、そのツールを使っているだけで何も評価されるようなこととは思っていないのだ。


私は日本と海外をつなぐことができる媒体として評価をされたいとは思っていない。


日本もタイもアメリカも中国もどこも私にとっては、一フィールドだ。

日本を外の世界と繋げてくれる!という役割を私は担いたくない。


ただ、一個人として、一ビジネスパーソンとして、コミュニケーション能力の高い個人として評価されたいのだ。


私は銀行の窓口ではない。私が銀行なのだ。


自身の提供するシステムやサービスの一環として、私の部分である「媒体としての自分」を見ていただけるのはありがたい。


ただ、私は媒体として一生生きていくつもりはないし、「媒体」であることにかなりの価値があるのだとしても、私は自分の言葉で語り、自分の言葉で世界を引っ張っていきたい。



昔母に言われたことを思い出す。

世界中で働きたいという私に、

「あなたは飛行機内で働く人じゃなくて、飛行機に乗って海外に行く人になるのよ」  

と。

あまりその時は深く考えていなかったが、(母は客室乗務員を昔やっていたことがある。それでよっぽどキツかった模様)

母は私の性格をよくわかっていた。



媒体としてたくさんの人、ものを繋げることに貢献できることは確かにありがたい。

これからも部分部分でやっていきたいが、私がいろんな方、もの、ことと繋がる価値のあるように人に少しずつでもいいからなっていこうと思う。






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