凡人として
先日、カンボジアで11歳の女の子の卵巣腫瘍の再発の手術をした。右の横隔膜あたりから発生したのだろう、肝臓の右側を押し下げるようにへこませながら、お腹の中に大きく飛び出し右のお腹の中を占拠していた。
腸はそのため左側にほぼ押しやられている。
卵巣腫瘍には大きく分けて3種類に分類できて、
良性
中間
悪性
という感じになる。
卵巣がんはもちろん、悪性に属する。
この子は初回の手術の時の結果は中間に当たる腫瘍だった。
もちろん、卵巣腫瘍をそのままきれいに取れば問題なく、多分、再発もしなかっただろう。
しかし、手術の時に一つだけ違ったのは、既に腫瘍が破裂していて、他のお腹の場所に転移している状況だった。原発の腫瘍はきれいに切除できても細かい無数の転移は全て取ることはできない。
さらに治療者を悩ますのは、悪性のものに比べて抗がん剤への反応が悪い、すなわち抗がん剤が効きにくいということで、どうしても治療は外科的切除が中心になる。
ところが手術といのは、そう何度も無限に繰り返しできるわけはなく、やるほどに癒着も起こるし、腫瘍もきれいに切除ができなくなってくる。
1度目の手術も、そして今回の2度目の手術も腫瘍はきれいに取り切れている。
取り切れてはいるがやはり、小さな転移部位まで取り切ることは人の能力では及ばないことなのだ。
今回の手術中に私は一つ強く思ったことがある。
腫瘍を取っている最中、もしもこの子が自分の11歳の娘だったなら、どう感じながら手術するのだろうか?と。
医者である自分には、この腫瘍のこと、未来に訪れるだろう再発のこと、同じ腫瘍で亡くなってしまったかつての担当した子どもたちのこと、様々な思いか重なって複雑な気持ちになりながら手術をやり続けていた。
そして、もし私が父親として我が子の手術をしているならば、心のなかできっとこうつぶやきながら手術したに違いないと思ったのだ。
「何度でも、たとえ何度再発してもきっとお父さんが助けてあげるからね」と。
その一方で、残念ながらそれが現実には不可能なことなのだと頭の中で理解している。
本当にやり切れない、無念な想いを引きずりながら手術を続けるのだろう。
ふと我に返り手術を続けた。
子どもは手術後、順調に回復し今は抗がん剤治療がはじまっている。
人の運命はわからないし、私が数え切れないほどの同じ病気を経験してきたわけでもないし、もしかしたら抗がん剤がとても効いて問題なく生還するかもしれない。
本当にそうなればなんと幸せなことだろう。
私のやれることは、手術とあとは祈ることくらい。
それは医者であっても、普通の人と変わりはしない。
どうぞ抗がん剤治療が効いてくれるように。
どうぞこの腫瘍が治りますように。
どうぞもう再発しませんように。
私に神のような力が宿ればいいのにと今まで何度、思ったことだろう。
弱き凡人の私は今日も自分の無力を感じながら、それでも前に進んでいくしかないのだろう。
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