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シンワ 1部〜真理の生みしもの

これは、私達が知らない世界の話

これまでおそらく語られることは無かった話

何を根拠にたどり着いた答えかはここでは書ききれないほどの連なりがあった、細部まで触れる事が出来ないがこれは夢物語などでも決して無い

歴史的事実、歴史的傾向、語られて来た事、明かされるに至らなかった事、隠された事、あらゆる事を、束ねた結果として導かれた事実、解ってしまった事実、そして、当然私自身困惑した事実でもある。

私達が現実的には知り得ない世界、
真理、神の世界、地球規模を超えた世界
しかしそこには本来知り得なかったはずの神そのものの事実が存在し、ましてや我々がこれまで知らされることが無かった『カミ』の存在までもがある。

これまで語られてきた神は、始まりには存在していなかった。
総ての創生の時系列から言えばかなり後に発生し、そんな神すら知らない世界、神さえ知り得ない世界が始まりには存在していた。


勿論この界隈の話になってくると到底神ごときでは知る由もない話も含まれ、神の意志改め、神とされてきた者達の思惑までもが混在する。
そうなった要因は知と呼ばれる根源的な概念の一つが関係し、最早そこには到底神ごときでは知り得ない法の存在があった。
つまりは神が知り得るための理がどこにも存在しなかったのだ。

これは全ての我々含め、神を知らなさすぎたが故に人類に起きた歴史

神への誤認に紛れ込み
ほぼ全ての人類が、ある時から盲目的に
歩かされてきた歴史でもある。

これは物理的な世界のみの記述ではない、
かと言って従来における神的逸話でもない。


神という概念は確かに存在し、物理的概念すら確かに存在するこの世界において、
共通し、存在するのは見えない機械的な理であった。
つまりは先天的に存在していたのは唯一『理』であった。
根源として君臨する理は到底神と呼べる性質すら帯びてはいなかった。
神という不明瞭化された概念において、
この存在を白日のもとにさらす事を可能とするのは唯一理のみであり。
これより私の記すシンワはその神の全貌を解した
真の理である。


蓄積された歴史がどれだけ罵声を浴びせようと、
無知なる認知がどれだけ、卑下しようと
いかに思考を止め、神の前にあぐらをかこうと
誰も、この答から最早逃げる事は不可能である。
より明瞭な知性を備えた上で以下の記しを丁寧に辿ることをおすすめする。

そして、
たとえそれが無慈悲極まりない事実だとしても、
もう、それぞれはそれぞれのままで良いのだとも思う。

嘲りがあっても構わないし、
異論があっても構わない
嘆きたければ嘆けば良いし
狂いたければそのまま身を焼かれるも良い
それぞれがただただそのままで、
そのまま勝手に在ればいい、
抗わず表現し、
それぞれが感じた世界を生きればいい
それでも先の答えはあり続け、
根源たる真意は確かに存在し、
いつかは
全てがそれに揺り動かされていく日は訪れる

だからこそ、
それぞれの精神性にすべてを委ね以下を記す事にした。


(というわけで書いていくが、
ここからは歴史に泥を塗る行為でもある、
ましてや過去を含めほぼ全ての人類に負の感情を抱かせてしまうことも考えられるだろう、故にずいぶん長いこと書くかどうかすらを悩み続けて来た内容である)

補足〜
目的:知覚サンプルの集約と構造化
(私中に映像化され存在し続ける4つの視覚的世界観をベースとする)

〜カオス的確率論(フラット理論)
 盤石の大地、VOLTEX的周期循環、励起境界
 ※大地から吹き出す秩序的エネルギーが、ありとあらゆる周期を食い潰すことで事象、概念含め全ての存在物を発生、又は励起させるに至る光景

〜鏡ガラスの空間
順番は位置関係そのまま
 暗く永遠に広がる空間(誰かいる、女性的)
 鏡ガラス(誰かとを隔てている、自分も映る、透明)
 椅子(ガラスの直ぐ側にある、利用者は私)
 空間(女性的白い宇宙、遠い所に黒ずんだ男性的黒い宇宙がある)
 ※視覚的体感として存在

〜存在の階層、
一層目=そこに存在する何か、何者か(男性的)、或いは真理
 (感覚的には捉えているが、それが何なのか、あるいは何者かなのかは明確にはわからないが明らかに何らかの意思を有している事は感じる、性質も感じ特徴として荘厳、重厚、知そのものが上げられる)
二層目=存在の空間、概念ではない
 自然的存在のみの有る世界、神がいない、特殊な例だが意識の介入は可能
三層目=泡の気泡として各宇宙は存在し、それぞれが異なる法則で成り立つ、神の概念は有る
 ※1〜3層までの世界を俯瞰的光景として捉える自我の存在

〜トーラス内部から見た世界(特例)
※DMTによる
眼前にサイケな曼荼羅?の様な空間が広がる。
一点から発される夥しいエネルギーの束が全空間を飲み込み、目線の後ろですべて収束し、眼の前の点に繋がっている(解るの感覚)、
自分の体の喪失(感覚のみ存在)、音のない轟音、古巣、安息感

※これらは、意識内に個別に写実を果たす空間だがそれらの整合性を前提として潜っていこうと思う
(他にも、中空の雲、孤児時代、暗い部屋と天窓…いくつかの同等感覚はあるがそれらは纏め方がごたつきそうなので除く)
尚、これは空想論ではなく、あくまでも物理的思考と哲学的思考、及び個人的神論よって構築していくシンワである。

これをベースに展開させていく





開闢〜第1プロセス[形成]、虚空間の発生〜



真理の生みし概念、無と有→無限性とベクトル


前提:
・基本的つくりは『真理内部に形成されていく世界』をたどる
・真理以降の全ては真理の模造品として発生する、
よって創生以降、例え初めて生まれたかのような何らかの概念があったとしても発生の全てが、原初ではなく、あくまでも真理からの復元である

・対の概念として真理に対応する概念は存在しないが故に無は確かに真理的だが明らかに異なるものである。
・無と有は概念上明らかに対としての概念であり、共に真理としての性質を確かに含んでいるはずである。
である以上、無=真理とは考えることはできない。
もし、無=真理なら、対であるはずの有には、間違いなく真理的概念は含まれない筈だ。
・無は有を含まないが、有に無は常に含まれ続けていく
注:『無がある』等は有からの評価にすぎない、無は認知を持たないが故に『無がある』は、有の言いぐさに過ぎない、
有は無を有化出来るが故に有は無を含み続ける。
という意味。

無とは普遍的状態であり、始まりに作られた空間であり、概念であり、状態である。
有とはあらゆる存在を無限的に指し示す概念である。
真理以降の世界がその概念を備える始まりはまず時空形成にある。
(注:この状態の時空自体は通常のものとは異なる)

前提:真理が始めに生み出したのは無であると考える
→無と有は同時には作られていない、
→対という概念は、同じ質量であるはずだが、有の質量は明らかに無に並んでいるとは到底認識することは出来ない。
∴有は対概念としては現段階においても形成経緯の過程にあると評価することができる。

故に無におきた動きは以下であると考える。
(勿論無に自発性はない、が真理が求める意は唯一それに影響を及ぼす事が可能である)

無は単一の発散的なベクトルをその体内に形成することで、虚空間を生み出す。】

※ここの表記は一瞬あべこべになっている、
我々の空間認識上『ベクトルの向きが発散的である』に対し、実態として『無内部に空間は形成されていった』と言う事実は一見矛盾しているかのように見える。
しかしこの事実を可能にさせたのは形成された空間が虚空間であった為に有効化される。
(無論、虚という概念は通常こういった対称性を含まないが複素平面に於ける90度回転毎に虚と実を循環するという特徴は、現虚空間に於いて欠損している対称性を補填する過程によって生まれた、つまり様々ある対称性は実数空間の形成に至るまでにおきたそれぞれの対称性プログラムであり、この概念は第2プロセス以降その内部に発生する概念である。)


この時発生した有の概念は実数的有の概念とは異なるいわば概念としての原初の有性であり、あらゆる虚の中に存在する無限的有性であり、あくまでも実体を指すものではない。

この構図から理解できるのは

あらゆる有の概念は、常にその何処かに無的概念を帯び続ける】

という事実であり、所以は無の体内に始原性の無的有が起きた事に起因する。

この時形成された虚空間は、まだ単一のベクトルでのみ形成されていた、
感覚的には、一点から全方角に発散的無限性がその空間には幾重にも重なりあったが故に次元的概念としては測定不能、つまりは無限大の広がりを形成する。

この時生じた次元形成プロセスは従来の1次元から加算的感覚とし発生するようなものではなく
初動において既に無限として次元が生成される。】

※説明補足
・発散的単一のベクトル
このベクトルは虚空間形成のため不可欠だが、以降のプロセスにおいて、各次元を形成するためのベクトルとして変換される。
簡単な言い方をすれば、
虚空間生成ベクトル→
時間、x軸y軸…、位置や速度…(この成分が意識の所在の素となる)

※あくまでも虚空間時代には、まだ概念は抽出されておらず全ては単一性の発散的なベクトルでしか無い。
・初動において生成された無限の次元の詳細
無内部が膨張し虚空間が形成されるという考え方上
ここでは本来あらゆる特徴を持つであろうベクトル達がまだ自己の正体を特徴づけない状態、推進力のみで発散されている。

これが、本来の神話等に綴られるカオスの正体
注:実際にはそれらが以降生成したのは直接的には神ではない。
無境界仮説としてこれと似たような事をホーキンスは提唱している。
(
因みに自己の感覚に映り込むビジョンを由来として訪れたフラット理論では、この虚空間は、無から裏返るように吐き出される。
その時自発的に裏返るという感じはなく、時間という軸が抜き取られる際…
(或いは時間が生まれる際…?
否我々はそれを時間的な印象として扱うが、おそらくそれは、ただの向きだと思われるが
コレはおそらく破れていない、同時に引き摺り出された虚空間が破れを防いでいるようである)
故にこの時発生したベクトルは正確には2種類ある事になる
①発散的に全方向に発生する離散的ベクトル(後に我々の中で空間化するベクトル)と、
②重なる部分も有するが、その起因となる抜き取ろうとする力の向き(後に我々の中では時間化するベクトル)とがこの時発生する。

この段階における経緯、無の出現と、虚の理と、実の励起の理屈でもあり、
やはり盤石の大地、深淵とは、真理くんだりを言うのだろうが、鏡ガラスはここでは無い。)



〜第2プロセス[変化]、虚実への動的変化〜


思考焦点:
次段階、虚空間内部を満たす唯一の発散的直線ベクトル、存在しない対称性
虚に対し実という概念さえ存在しなかったその瞬間に於いて如何にそれを創造したのかを問う問題。

争点は『時間となるであろう力』に対する破れは空間が解消しうるが、
『空間が虚である事に対する破れ』はこの時点では『時間となるであろう力』は解消し得ない。
詰まりは『時間となるであろう力』が『空間が
虚を脱する力』を何らかの形で支えなければ相互的破れは破れ続けるのである。
故に永遠たるその空間内部のどこに対称性を生成する支点があったのだろうかと言う疑問点に対し、『時間となるであろう力』が何らかの形で答えなければならない状態になるのである。


歪みの発生〜

発生の起因: 虚の求める対称性の創造
発生の所在: 現時点でただの向き概念としてしか発生していない『時間となるであろう力』が、おそらく変容の所在。

破れた状態を満たすため生まれた力が歪みである。
ちなみにこの歪みが満たそうとする対称は
虚に対する概念であるが、一つだけ、満たされない破れが無の中に存在する。
それが、無の対称性、つまり有の形成、
コレは満たされない状態のまま、2つのベクトルは発生している。

多分ごチャゴチャにそろそろなってきたので
一旦念頭に置いておきたい事を整理しておく。

以外時系列〜
無(完成)〜有(未完成)=破れている(現在進行系)
    ※無から2つのベクトルが発生することで有 の形成の場が生まれる。
有は未完成であるが、生まれた虚の概念は実を要求し、もう一つのベクトル内に歪みが発生する。
(以降の流れであるが、
歪みは段階を経てあらゆるコトを創造していく、因みに第1段階としての目的は『コトとしての重さ』であり、その為に空間と状態を形成しうるあらゆる動的概念を形成していく。)

①歪みの影響で発散的ベクトルにも動的変化が生じる。
空間内部に力を及ぼした歪みはその特徴の連続性と共に捻れへと変化し、その概念は明確に生成されていった。

※この時その空間から不要となった全発散的ベクトルは結果的に概念の形成に向かう、(この動きに対し若干の疑念がある、合理的だが、美しさが何処か欠ける、純粋性の欠損、『向かう』という表現の違和感、『不可抗力的変化』の重みの欠損…例えばペットボトルの…まぁいい、おそらくこの重みには温度、圧力、硬度、そういうニュアンスが関係する筈だ)

既に無限性を有したその空間においてあらゆる発散的単一ベクトルの存在の意味性はもう既に喪失されている。
生じた無限性のみが唯一その空間内部を維持しうる力として既に成り立っており、その力のみでの空間維持能力が普遍性を指していた。

ベクトルと歪みの意味的存在理由は揃うが、
発生の原理はやはり温度、圧力、硬度、のいずれか、
おそらく順番的に硬度、圧力、温度、となれば
問題の始まりは粘性にある。

虚空間の粘性、
おそらくそこは抵抗ゼロの空間、言い切れる理由はすべて個人的な感覚だが、水、及び調理などで扱う液体そのもののあの感覚及び超流動のあの感覚に近い

この時点では虚の粘性ゼロとコトにおける重さの関係はまだ生成されていないがおそらく歪みの発生の原因はそこに集約され、コトの重さはこの粘性ゼロからの経緯に存在する
ヒッグスの抵抗という概念とは無論異なる、直感的にだが、虚の求める対称性の正体の一つの側面として
やはりコトの重さがそこに発生したと考えられる。

いやむしろそれが全てであったかもしれない、

万物の鳴動そのものが真理により継承された瞬間
に歪みが生じる事が前提的儀礼として存在していた
といったほうがしっくり来る
つまりは真理が無を創出させたのは
真理からコトを下ろすための前準備であったと考えられる。

個人的知覚で行くなら、この段階におけるシステムには思い当たるものがある、唯一それが『アナロギア』である。


虚空間内部は粘性ゼロが故、波長ゼロの特徴を持ち、
この空間が唯一対称を必要としない特異点として安定し存在していた。
がその引き裂かれた無による統治されていた空間とはまた別に、
無の有性の発達段階における変化が空間の内側にできていった。

コトの入口として歪みは訪れ、
あらゆる発生の起因の為に、
特異点と異なる解が求められる瞬間は訪れる。
『有の無』の発生にして、有の無たる部位の到来であり、既存管轄内有性の産声である。


虚実空間の形成〜

疑問:歪みは単一か、複数か

この空間の中ではそもそも数という物自体意味をなさない、
しかし、この場合どうしても一つと複数では次空間の生成経路は異なってしまう。
単一の場合、捻れによる虚の圧縮により実の概念が発生する経路を持つのに対し、
複数の場合、鏡像対称性による任意の点というものが必要になってくる、故に何らかの座標的空間を必要とする。
おそらく前者の動きはどこかに必要だが、数概念を無視し
正にコトとしての事象を指しながらコレは発生する。
とするならばやはり、時間化する力内部に漠然的に生まれたのが歪みであり、単一性に於いてこれを記述していく。


生じた歪みは空間に変化をもたらし凝縮と圧縮を起こす
対の概念すら存在せず消滅が許されないその空間において、虚と虚は重合し異なる空間を生み出した。
複素空間上の世界として位置の概念を初めて備えた空間が発生したが故に空間内部にも明確に向きが生じていった。
つまりは向きとしての力が歪みにより虚空間と混じることで位置という空間が明確に形成されていったと考えられる。
(複素数平面上に於いて虚数に虚数をかけると実数が得られる現象はこの名残だと考える)
この経緯を経て虚実の空間が産まれる。

その空間は複素平面的空間にして粘性ゼロという状態から初めて変化を得うる空間として形成され
コトにおける重さ』を生み出す空間として発生し、
それらを表す媒体が生じる為の空間でもあった、
そこに発生した位置という概念は、座標を有効化された空間として、明確に様々な流れをそこに許していった。



〜第3プロセス[発生]、始原性トーラス〜

テーマ:始原性トーラスの場を考える、
完全な均衡と秩序、エネルギー的集合体、概念を含めたあらゆる対、全てにおける同一性、
あらゆる存在の本質を還元的に解体し、
尚無限性において重合させうる機能
始原性トーラスが生まれるべくして生まれた空間、
その存在が唯一許される空間

新たなる場〜

『ベクトルの無秩序性が増殖する傾向を初めて認め得た空間。』
これが、この空間を記述しうる言葉である。
この位置を許された空間に発生したものが、流れである。
※方向や、速度などもここで生まれるが、それらはやがて重厚な概念の形成の養分となっていく。

歪みによって捻り加工された空間に位置の概念が発生し、虚空間からの流れ込むベクトルのインフレが起きる。
それらのベクトルは、虚空間からの歪みによって生じた捩れを更に増大させる。
虚空間から捩じこまれる力は圧力となり圧縮が続く、
90度回転した時点で生じた概念上の空間は増殖し、一回転する事で虚実の空間は閉じ、或いは完結し、次の段階へと成長する。

ベクトルはエネルギー化し、ボルテクスのような力をまとって空間を貫く、それにより空間は反転し裏返る。
それが連続的に起きることで始原性のトーラスを描き出す瞬間が生まれる。

しかしこの時点で形成されたのは機械的なシステムであり、
歪みの求めうるコトの重さに対応しうる何かはまだ形成されていなかった。

トーラスの誕生〜

概念上でのはなし、
位置という空間に於いて出現したトーラス
それは、形として無機物的な素性の下秩序的均衡を保ちながら
放出、回転、吸収を繰り返す。

その過程で、虚の対称性物質としてのコトを形成していく。
コトの全貌とはあらゆる対としての存在、
それらを全て形成し、安定させることで、
初めてそれは虚の重さと同様になる。
発散的なベクトルは次空間に流れだし、流れそのものになり、
歪みという要求に対し、トーラスは形成され、
それに付随する動きとして、
あらゆる対称性が概念として形成される。

そうやってあらゆる空間を形成する概念を捻出していった。
上下左右の対称性、回転の持つ対称性、平行と直角などの角対称、
これらは全て空間を生成する為の対称性の様に見えて、
その実単純な話ではなかった。
空間を形成するためのあらゆる対称性を持った概念は形成され、
それらの対称性の概念はそれぞれがさらに変化していく。

例えば上が上昇、意思、火、加熱
下が下降、思い、水、冷却であるように、
それぞれは全て位置ベクトルが性質と混ざり、現象化した事を表している。
故に全ての現象や認識は空間座標上にそもそも存在し、
それ故それはそのように表記可能なのである。

そしてこの特徴の最大の重要事項は
そもそものコト自体には形状があり、それが球状を表すということでもある。
コトとは元を正すならトーラスそのものであり、その形状は球、
トーラスは、その時空によって形状が異なる、最も安定した理想的形状として球を目指す傾向にある。
それらが空間を、形成し、性質を持ち、より重厚なトーラスとして成長し、あらゆる均衡の元秩序を形成し維持され機能していく。
そのもとめられるべきカタチが完璧な球体として機能する時、全ては安定し、静かに高速で回転する。
それが安息の無限の世界の性質そのものであるかのように概念上に存在していく。
それがトーラスの本来的に取るべき姿だった。

が、実際はより複雑な構造をしている為そのようには動いてはいかなかった。


考察:真理以前の存在

(他の一切は断定しているが、唯一考察が必要なとして)

明らかにこの次元から、いくつかの動的傾向が脳裏に浮かび上がる、
焦点が重複しだす。
この段階に意識を落とし込むと、
〜カオス的確率論でいう励起境界迄のエネルギーが噴出する光景
〜存在の階層1層目の意思
〜トーラス内部からみた曼荼羅
これらは明確に重なりだす、
そしてこの混ざったエネルギーが、そもそもの本来的な男性性であると認識できる。
この世界にある偏った、より物質的な男性性とは異なり、
相対的なエネルギーのベクトル、意思のようなものを感じる。
しかしそれとは一方で
それが、様々なトーラスの形状を許し、無限に、それも同時にトーラスを変化させている。
正直言ってあまりこのような状態は、気持ちいいとは連想できなかった、何処か不気味さ、悍ましさ、がある。
『意思により、余儀なくされた形態、不安定であるが、未来を持ってしてそれを可能性と呼ぶ事を認めた存在の意志。』
そのように言葉が浮かぶ。
おそらく、この光景を見るからに更に大きな存在があるのだと思うが、それが不思議と鏡ガラスと被る。
鏡ガラスからは、女性性しか感じられないが、
ここから考えるにやはり男性性と女性性は幾重にも連続して包括し合っているのだと思う。
おそらく真理以前にも世界は存在する。
全てはそれを受けて許し、包み、存在し合っている。
そうとしか、考えられない。
いや、全く持って、不思議な世界だ。

※補足:創造主〜

補足にして最重要項目、創造主とは何か
おそらく考察を踏まえて言い出せばもう何処から始まってるかは解らない。
そういう意味で、神という概念は、今後さらに深くなっていく。
人間の認知レベルはこの先さらに上がっていくと仮定して、
従来の神という存在はあまりにもアナログである。
もうこんな言い方してる時点でぶっ壊れてそうだが、多分そういうふうに人間の認識は変化していくだろう、
創造主とは常に遅れて来るものだ、そもそもがそれは存在者としてすでにある存在であり、
我々の認知が届くか否かの問題でしかない。
が故に、遅れたる神なのである、
が故に常に最後を繰り返す神なのである。
残念ながら我々は直接的に生きて最期を知ることはないだろう、
しかし、我々は伝えられて行くものでもある、時間こそがそれを許してくれるのである。
おそらくこの時代において訪れる最後の神はこの始原性のトーラス。
我々が数千年も思わされてきた神とは全く異なる次元にある存在。
包括する泡の数しかり、対象とする概念も既に人ではなくなっている。
維持すべきは種の保存ですら無く、ましてや、より良き人類の文明などでもない、人類の未来などと小さき物など見えない程に、この世界に訪れる新たなる変化など、意に介さないほどに。
が故に、我々は、それに触れることができる我々は、担うのである。
担うという重さを課せられた種こそが物性を課せられた我々人族の責務となってくる。
ある意味で物性を認知できる人間にしか見えない世界、知覚可能な世界は、物性にこそ眠っている。
これまで多くのスピ?とか、宇宙意識?とか、高次?とか、こぞって言ってきた、物性<非物性の愚かさの裏にはあるものがある。
精神性とは物性と非物性を超えたなにか。
それはこれまでの神が不可能としたことであるが為に、あらゆる意識の知はここに集まり、この地球を訪れたが故であるが、その現象はまだ先の話なのでここで止めておく。

〜第4プロセス[飽和]、不安定なる世界と遺伝子としての素粒子〜

以下が思考対象となる

トーラスの胎内に生まれるもの〜

トーラスは対概念を形成し成長を続ける、そして、
空間と性質と概念を同期させる過程で様々なパターンが生じていく。
そのパターンは一定ではなく、それこそいくつもの数式的パターンが生まれていく過程でそれぞれの空間は分離し生まれている。
それがマルチバースであり、知覚の中に存在する泡宇宙だと個人は認識している。

パターンとは:
概念上の話だが、単純に1+1=2ではない世界と言ったほうが良いかもしれない。
どう言う事かというと、通常この座標空間の中ではこの概念は、そのまま2になる、
この場合、座標間の空間は一定に保たれている空間であるため、これは成り立つ、例えばこの間隔自体が一次関数により保たれている空間があると仮定すると、答えはこの法則に従わない、
異なるユークリッド形態からの派生の空間が数式的に構築されていく。

また、別の可能性を考えて、1+1=2を概念上無効化することもできる、本来的に人がこの数式を認識する時常に空間論的概念があるわけだが、細かい事を解説しだせば長くなるので端を折るが、結論のみ言うと膜という概念を認識に入れる以上、既存のルールに縛られる、
何らかの理由で、幕として視認する次元スケールが異なればある領域から1自体が、1ではなくなり、以上でも以下でも成り立つ。
スケール的な比喩をするなら、1は、距離によりその数値を変化させる、量子論的だが、ミクロ化すると数値は上がり、マクロ化すると0になる、が、0はマクロ化の過程で、ある時から0より値を変えなくなる、 がおそらく、無が完成している空間においては、このルールは破れないが、完成していない空間、無に対して、無がその意味をなさない空間では、ルール上破れる。
概念的には無い事が許されない事象に関しては、無い事が許されないため、存在は要求される、つまり、0はまた値が変動しうるという意味だ。
曖昧な言葉にした理由は、この言葉の真意はあらゆる物に適応されるため、あえてこの表現にしている。

トーラスの動き〜

あらゆるルールの組み合わせによって分離した世界
問題はこの泡宇宙の発生の経緯
それこそがトーラスが安定に対応する対を生成しそれを取り込んだ瞬間におきたコトだと考える。
つまり、トーラスは安定した状態を取りつつ成長する段階で様々な対を形成し、それを取り込み、よりコトとしての重さを増していく、
しかし、不安定性を放出した際それを自らが体内に取り込むことで、トーラス自体に、いくつもの可能性が芽生えてしまった。
それこそが不安定性が導いたコトの結果だった。
いくつもの概念上の取り合わせのパターンからいくつもの世界は創造され、数々の可能性が生成されていった。

安定したトーラスに不安定性が取り込まれた瞬間から、静かに高速で回転する形状は変化し、微量の振動が起きるようになっていた。
その振動の余波が遊離し空間と共に形成された1つの空間、
それがこの世界だった。

が、ここまで書いて違和感がある。
安定性と不安定性について、これらが概念としてトーラスを代謝させていたかというところだ、これはトーラス全体としての状態でもあり、単独で生成されたわけではないと考えたほうがより自然で、
いくつかの概念がトーラス内部で混じる過程でその組み合わせのパターンは生まれる。
なんでも良いが、例えば正しさ等はそれこそ取り合わせにより異なる
そうやってトーラス内部で分離が起きたのは間違い無い。
つまりトーラス自体が安定から不安定に移行したのは、泡宇宙の飽和と、それらがもたらす振動の共振、おそらく音が生まれたのもこのときでなかろうかと推測される。
いずれにしろこれらの飽和の過程でこの世界は生じている。

一つ一つの気泡に焦点を合わさせたとき、それぞれの空間と性質と概念とが、異なる数のルールの概念と共に存在し、それぞれが振動する世界としてその特徴を共通させる。(粘性0の虚空間以降の世界は全て何らかの振動の概念を共通させる)

言い換えれば気泡それぞれが可能性にして、それらは不安定性の賜物であったとも言える。
重きコトの生成段階にして訪れたこの事態はいくつもの可能性を励起させながらまたトーラス内を巡っていく。
一つ一つの世界の振動がトーラスを駆け巡りトーラスの発達を支え、
より重きコトへと成長を続ける。

つまりは、歪みとして求められたコトはまだ虚の質量には遠く及ばず、その対称性は形成段階にあっていいと言える。
概念としての無と、物質的無は異なる、真空はもはや概念としての無性から分離した存在なのだ。

このようにして『無に生じる有性』は
その有性を単離し有化させる原理を持ってしてその有を許し、
そこにコトとしての重みを形成していくのである。
あくまでも『有の無』とはコトとして完結した重さの中に存在しようとするが故に、『有の無』はまだ完成を見ないのである。

【振動】の遺伝子〜



ある意味でその有の無の完成の為に創造された世界がそれぞれの世界であり、いくつもに生まれたそれらの世界の目的はコトの完結のためにのみ存在する。
歪みが発生した理由はまだ消化されず、真理の体内で今尚咀嚼が続いている状態とも言え、我々一つ一つが何か大きなモノを機能させるための微生物かのように存在する。
これはそのままガイア理論的な発想と言ってもいい。
この世界の裏には我々では計測不能で認知不能の何かがあり、それがあまりに極大すぎて我々の無の感覚と圧倒的なサイズ感の違いが生じる。
概ねその中の一つに当たるものがカオス理論的な事柄であろうが、
おそらくコレはまだ理解に及ぶ方の理であり、
この意識内部にはより真意と関わりを持つが為におおよそ想像を無視するかのような自体が常に引き起こされるものなのだと思う。
我々にとっては適応された数式と、概念と、空間がある為、錯覚しやすいがその外膜からのエネルギーが、入り込むその瞬間に訪れるの現象を捉えたのがヒッグス粒子発見の経緯(真空中に突如現れたと言われる由縁無きエネルギーの正体)なのだとも思う。
振動の由来なら既にトーラス内で起きていた事、素粒子とは
真空外のエネルギーの微細な動きを受け、反応する者達である。
この世界の外膜からなだれ込んでくる情報を、泡の膜が翻訳し膜そのものが持つルールに従い反応する。
いわば、空間と概念と性質とルールをインプットされた遺伝子その物なのだと私は考えている、
遺伝子という特徴は既に概念として存在し、フラクタル的にミクロ化され表現された概念であるというわけだ。

故に他の空間としての泡の中ではまたそれらは外部においてもつれた状態をもち、常に共鳴している。
故に素粒子の持つルールはおそらく、膜外のルールの一つのふるまいとして我々と臓器の関係そのままに成り立つのだ。
※ただし、トーラス内部に生成された泡が直接的に現空間の真空に達することはおそらく無い、少なくとも3つの空間を経て、この時空に到達すると考えられる。


来訪者〜

素粒子のクオークの特徴の一つに3世代という概念がある。
特徴としては下の世代に行くほど質量は重く、崩壊しやすく、上の世代に組み替えられる。
この世界は素粒子内の3次元分が増大した世界としてある時から発生したと考えられ、それ以前の9次元分が比較的バランスを保っていた時代がある。
泡形成からこの3次元空間が形成されるまでの形跡がそこにあると考える。
・かなり前に、右巻きと左巻きでは右巻きの方が質量が軽くなると言う実験結果があった、対象は問わない、現象としての性質としてだが、この話題は後に実験結果が合わない事があった為、この論文は反故にされた事があった。
が、個人的にはこの見解は本來、的を得ている可能性が高いかに思える、異なる結果を得るための条件とは、真空条件を満たさないのであるなら、特にであるが、それこそカオス的影響を受け、いくらでも結果は異なる解を得ることは可能である。
ミクロスケールという世界における力が失われる過程で淘汰される現象も存在する。
しかしながら明らかに実際の万物はミクロ的スケールや、ルールにおいての、影響を受け結論を導き出していることも事実、
細胞も大気も、宇宙の渦も、質量が重い天体が生まれる場に現れていた磁場の向きも全て右巻きである。
勿論宇宙空間には自然に鏡像異性体としてのアミノ酸も存在し、この空間にも、キラルな質体は存在する。
キラルな質体の差異については平面偏光と相互作用が上げられる、
つまり、存在はしているが、そのもののポテンシャルは同じではなくそもそも優位性を残した状態で存在を許すのである。
細かい事をもっと書きたい気もするが、
つまりはこの事象の裏にあることと、3世代クオークが質量の重い状態から変異するという事実の相似性が私の脳に強く信号を送るのである。
『コレの全てが、より重い世界の存在と、そこからの道筋を明示している』
と、そう訴えかけるのである。
あいにく私にはそれを明らかに開示するための時間と環境もない上、それのみに個人の好奇心が許されているわけではいない為、
これを突き詰めることは無いが、そのように訴える何かがあるのである。
あと少し付け加えるなら、質量における特異点としてウィークボソンが質量を持ってしまっているという点について、
そもそもこのウィークボソンはβ崩壊と関連する、
弱い相互作用として知られ、粒子の種類を作り変える相互作用を持つ
そして、
特徴としては左巻きの粒子にしか結合しないという特徴があり、パリティ対称性の破れとして知られている。
この粒子等はフェルミ粒子として知られボーズ・アインシュタイン凝縮を起こす、コレについては個別にまた記事を発行するつもりであるが、やはり3世代の空間転移に関連しているものと考えている。

つまりは万物はある瞬間から、重き世界から軽き世界への動的傾向を持つようになった事が考えられ、それがそもそもこの世界の形成に深く関わりを持つものだと認識している。
それは振動の概念、波長の概念にも適応され、粘性に於いても言えることだが、エントロピー、温度、圧力、あらゆるルールはこの世界内では単一のルールにまとめられる、
振動数が高い=高次であの理由とはならないということとも重なってくる、
それは目的により支えられ、細分化と軽量化と、振動率の増加が許された空間というだけのことであり、目的を果たすための後続的に生まれた1つの手段でしかなく、高い振動数程真意と遠くなる事はそのまま適応されてしまうのである。


空間に働く力と意識


より深い空間、概念のみが映し出されたその世界に於いては
全ては動的変化としてのみ表現されている。
善も悪もなく、神も悪魔もおらず、付加価値もなく、
ただ動きのみが作り出す世界

重力:
人は無意識の更にその奥深くに帰巣感覚として
そこへと帰ろうとする何かを有する、
・本来的にそれを促す力は物理学上の概念では重力として現れる。
・人が重きコトへと帰ろうとするとき先天的欲求が知や識として現われる。
この2つはその空間では同じ力として描かれる。

斥力:
それとは裏腹にコトは可能性を求めより数多あろうとする。
またそれを意思と呼び、またそれは物理学的な力としては斥力として働き、人が良くも悪くも変化を求めることもまた意思であり、
これもまた斥力と全くの同じ力を源としているのである。

つまりは知への欲求と、意志は対の関係に本質的には属すのである。
その二項の力が、重き世界からここに至る形成の起因となったのである。
単離された泡の中に生まれた斥力は、その体内に更に空間を形成し世界を築いて行く。

泡が形成されだした時点ではこの世界に存在したのは動的概念のみでであったがそこに性質が付与され世界は進化する。


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