見出し画像

30年日本史00569【鎌倉前期】曽我兄弟の仇討ち 時政黒幕説

 この曽我兄弟の仇討ちは、その後
・伊賀越えの仇討ち 寛永11(1634)年11月7日
・赤穂浪士の討ち入り 元禄15(1702)年12月14日
と並び、「日本三大仇討ち」の一つと位置付けられました。能、歌舞伎、演劇、映画など様々な題材に取り上げられ、戦前期までは知らぬ者はいないほど有名なエピソードとなりました。
 また、静岡県富士宮市内には、曽我兄弟を祭る「曽我八幡宮」が建立され、主祭神は八幡神たる応神天皇ですが、相殿(あいどの:2柱以上の神を祀る際の従たる神のこと)として曽我兄弟と虎御前を祀っています。曽我兄弟の人気はすさまじく、曽我八幡宮の分霊を祀る神社はあちこちにあるようです。
 しかし、この仇討ちを曽我兄弟が単独で起こした事件ではなく、政局を揺るがす目的でなされた大規模なテロ事件だったのではないか、とみる向きもあります。
 まず、本当に仇討ちだけが目的だったのならば、工藤一人を討てば足りるはずです。なぜ御家人を何十人と殺傷しなければならないのか、理解できません。
 さらに、曽我五郎が頼朝の陣中近くまで深く切り込んでいったのも不可解なポイントです。「堀親家が逃げ込んだため」とそれらしい説明がなされていますが、怪しいものです。事実、曽我五郎が暗殺しようとした対象は頼朝であったと思い込んだ御家人も多く、鎌倉への第一報は
「鎌倉殿が討たれた」
という誤報であったと記録されています。
 そこで考えられるのが、「曽我兄弟は工藤のみならず頼朝の殺害までも企図していたのではないか」という疑惑です。そこで怪しく見えてくるのが、北条時政です。
 北条時政は、曽我兄弟から工藤殺害の意図を聞かされ、反対するどころか弟の五郎に「時」の一字を与えて「時致」と名乗らせるほどに二人を鼓舞しています。「親を失った経緯を聞いた時政が義侠心から協力した」というストーリーになっているものの、実際には時政があることないことを吹き込み、兄弟に頼朝殺害を命じた可能性はないでしょうか。
 事実、時政を始めとする北条氏は、源氏から実権を奪って自ら将軍を超える権力を手にするわけですから、この時点で将軍たる頼朝との間に対立が生じていたとしても、不思議ではありません。
 疑い始めるとキリがありませんが、曽我兄弟の仇討ちの話はこれでおしまいにしたいと思います。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?