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30年日本史00323【平安中期】清少納言 橘則光との離婚

 この頃、定子に仕える女房たちの間で日記執筆などの平仮名文化が流行し、ある種の文学サロンを形成しつつありました。その中でも特に突出した働きをしていたのが清少納言です。
 ここで清少納言のプロフィールを詳しく見ていきましょう。
 清少納言は康保3(966)年頃、著名な歌人であった清原元輔(きよはらのもとすけ:908~990)の末娘として生まれました。曽祖父もまた著名な歌人である清原深養父(きよはらのふかやぶ)です。和歌の名手2人の血を引いていることを清少納言はいつもプレッシャーに感じていたようです。ちなみに2人の和歌は百人一首に収録されています。
・清原深養父
「夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月やどるらむ」
・清原元輔
「ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは」
 清少納言は天元4(981)年頃、陸奥守の橘則光(たちばなののりみつ:965~?)と結婚し、子をもうけます。しかし、則光は武骨な男で風流を解する心がなかったようです。
 枕草子第80段に則光の武骨さを示すエピソードがあります。
 藤原斉信(ふじわらのただのぶ:967~1035)が、夫ある身の清少納言に言い寄ってきました。斉信は則光に対して清少納言の居場所をしつこく聞きます。
 困った清少納言は夫に布(め)を送りました。布とはワカメのことで「布食はせ」=「めくはせ」=「目配せ」という意味です。つまり目配せをして「居場所を言わないように」という謎かけだったのですが、則光は全く気付きません。
 その後則光は清少納言に、
「あやしの包み物や。取り違へたるか」(妙な包み物だったね。間違えたの?)
と尋ねてきました。「あんな簡単な謎かけも分からないなんて」と呆れた清少納言は、答えを教えてやるために、
「かづきする 海女のすみかを そことだに ゆめ言ふなとや めをくはせけむ」
(水に潜る海女の居場所を、そこにいると言わないでほしいと思って、布を食わせたのです)
という和歌を書いて見せようとしますが、則光は
「歌詠ませ給へるか。さらに見侍らじ」(また歌を詠んだのですか。絶対に見ませんよ)
と言って見ようともしませんでした。
 則光は武芸には秀でた人物でしたが、少なくとも清少納言と相性が良いとは思えません。反りが合わなかった2人はやがて離婚することになります。

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