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30年日本史00770【鎌倉末期】吉野城の戦い 村上父子の犠牲

 護良親王が死を前に酒宴を開いていると、最前線で戦っていた村上義光が駆け寄って来ました。義光の鎧には16本もの矢が刺さり、致命傷を負っていました。
 護良親王が
「死を覚悟して最期の宴を開いているところだ」
と言うと、義光は
「敵の包囲網がこれ以上広がらないうちに、一角を打ち破って脱出してください。殿下が脱出したことを敵に感づかれないよう、私が殿下の鎧を着てなりすまします」
と進言しました。護良親王は
「死ぬ時は一緒だ」
と拒否しますが、義光が再三説得すると、遂に意を決して鎧と直垂を脱ぎ、勝手神社の前を過ぎて南方へと落ち延びていきました。その姿を義光は、二の木戸の櫓に上って見送り続けました。
 護良親王の無事を見届けた村上義光は、敵の方に向き直って名乗りを上げました。
「天照大神の御子孫、神武天皇より95代の帝、当今の第二の皇子、親王護良、逆臣の為に滅ぼされる。ただいまより自害するが、その有様をよく見て、汝らが腹を切るときの手本にせよ」
 そして鎧を脱いで櫓から投げ下ろし、錦の鎧直垂と袴姿となって、左の脇腹から右の脇腹まで一文字にかっ切り、自分の腸をつかみ出して投げつけ、大刀を口にくわえてうつ伏せになるという壮絶な最期を迎えました。
 これを見た幕府方は完全に護良親王が自害したものと思い込んでしまいますが、本物の護良親王は天川(奈良県天川村)の方へと辛くも脱出しました。
 ところが、南方から回り込んできた岩菊丸率いる幕府方の手勢500人は、地元に長年住み慣れていたため地理がよく分かっており、親王の生存を知ってか知らずか、天川の方に進軍して来ました。
 ここで護良親王の命を救ったのは、村上義光の子・義隆(よしたか:?~1333)でした。義隆は父と運命を共にするべく、義光の自害の場面に駆けつけましたが、義光は義隆に
「父子の義を全うするのも大事だが、それよりも大事なのは殿下の身を守ることだ」
と述べ、自害せず親王について行くよう命じていたのです。
 義隆は、迫り来る岩菊丸の手勢に立ちふさがり、1時間に渡ってその追撃を食い止めました。しかし多勢に無勢、囲まれて一斉に矢を射掛けられ、致命傷を負った義隆は、竹藪に入って自害しました。
 こうして、村上父子の犠牲により護良親王はかろうじて天川経由で高野山(和歌山県高野町)へと落ち延びることができたのでした。

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