見出し画像

30年日本史00229【奈良】藤原仲麻呂の乱

 仲麻呂のクーデターの策謀に気づいた孝謙上皇は、山村王(やまむらおう:722~767)を使いに出して淳仁天皇の鈴印を奪取しました。鈴印さえ奪ってしまえば、天皇として命令を発することができません。
 これに気づいた仲麻呂は、息子の藤原訓儒麻呂(ふじわらのくすまろ:?~764)を放って鈴印を奪い返します。孝謙上皇は、負けじと坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ:727~786)を派遣して鈴印をさらに奪い返そうとし、戦いが勃発します。
 戦闘の中で、苅田麻呂は訓儒麻呂を射殺しますが、鈴印は既に仲麻呂の手に渡ってしまっていました。
 ここに来て孝謙上皇は、仲麻呂の位階を剥奪しました。仲麻呂は兵を集め、迎撃態勢を整えます。
 この仲麻呂の反乱を鎮圧するため、軍学の知識を持つ吉備真備が呼ばれ、指揮に当たることとなりました。孝謙上皇としては、久しぶりに師匠の知恵を仰ぐこととなります。
 仲麻呂は近江守(現在でいうところの滋賀県知事)を長年務めていたため、近江に地盤がありました。近江国衙(おうみのこくが:滋賀県庁)に立てこもろうとして、近江に使者を派遣して、味方を増やそうと画策します。しかし吉備真備は一枚上手でした。それを予見していた吉備真備は、あらかじめ兵を派遣し、瀬田橋を焼いて近江国衙への道をふさいでいました。仲麻呂は近江に使いを送ることができません。
 仲麻呂はやむなく、鈴印を使って塩焼王を天皇に樹立しました。塩焼王といえば、橘奈良麻呂の変に加担しつつも証拠不十分で無罪となった人物でしたね。
 仲麻呂と塩焼王は、太政官符をもって諸国に通知し
「孝謙上皇の勅は偽物であり、こちらが本物である」
と主張します。
 一方、孝謙上皇も仲麻呂討伐の勅を発し、
「あちらの勅は偽物である」
と全国に触れ回りました。
 仲麻呂は越前に渡って軍備を整えようとしますが、愛発関(あらちのせき:福井県敦賀市)の守りが固く、突破できません。やむなく三尾埼(みおのさき:滋賀県高島市)に向かいます。
 ここで、藤原蔵下麻呂(ふじわらのくらじまろ:藤原宇合の九男:734~775)らの軍が三尾埼を襲撃しました。仲麻呂は船で琵琶湖上に逃亡しますが、湖上で石村石楯(いわれのいわたて)に射殺されました。
 同時に塩焼王も殺害され、こうして恵美押勝の乱は幕を閉じました。
 恵美押勝の乱は、講談などでは、仲麻呂に捨てられた孝謙上皇が、新たな愛人道鏡とつるんで、仲麻呂に復讐を果たした事件と捉えられています。

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?