見出し画像

30年日本史00683【鎌倉中期】日蓮と法華宗 安房追放

 蒙古襲来まで残り半年と迫った文永11(1274)年4月8日、日蓮(にちれん:1222~1282)が北条時宗の家人・平頼綱(たいらのよりつな:?~1293)と会見しました。そこで日蓮は「今年中に蒙古が攻めてくる」と予言したと言われています。
 ここで、日蓮の生涯を見ていきましょう。
 日蓮は承久4(1222年)2月16日、安房国東条郷(千葉県鴨川市)の漁村に産まれました。幼少期に地元の清澄寺で「日本第一の智者となし給え」と願を立てたといいますから、上昇志向が強い子だったようです。
 15歳で出家し、比叡山延暦寺で修行を開始しますが、そこで
「なぜ多くの宗派が存在するのか」
と疑問を抱くようになり、多くの寺院を回って様々な宗派の教義を学んだ結果、辿り着いたのは
「法華経だけが真の教えである」
との結論でした。
 建長4(1252)年に安房の清澄寺に戻りますが、そこで日蓮は
「念仏宗(浄土宗と浄土真宗のこと)と禅宗(臨済宗と曹洞宗のこと)は誤った仏道である」
と主張し始め、物議を醸します。特に東条郷の地頭・東条景信(とうじょうかげのぶ)は熱心な念仏宗の信者であったため、日蓮は清澄寺にいられなくなり、安房を逃れて鎌倉で布教活動を行うこととなりました。
 日蓮の特徴は、法華経を重視しそれ以外の宗派の存在を認めない点にあります。
 鎌倉の松葉ヶ谷(まつばがや)に小さな庵を構えて辻説法を始めた日蓮は、当時鎌倉で広く受け入れられていた念仏宗や禅宗を名指しで批判したため、鎌倉武士たちからひどく迫害を受けました。当時は執権北条時頼の時代であり、時頼は南宋の僧侶・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう:1213~1278)を鎌倉に招いて建長寺を建立するなど、臨済宗を厚く信仰していたわけですから、その鎌倉で禅宗を批判する日蓮はなかなか受け入れられなかったでしょう。
 その日蓮が、文応元(1260)年7月16日、さらに物議を醸すこととなる「立正安国論」という著書を北条時頼に提出しました。そこにはさらに過激な内容が書かれていたのです。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?