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30年日本史00608【鎌倉前期】藤原定家 式子内親王との恋歌

 この頃、定家と式子内親王(しょくしないしんのう:1149~1201)との間で頻繁に歌を送り合うようになったとみられています。式子内親王は後白河法皇の娘ですが、母・藤原成子の身分が低く、賀茂斎院(かもさいいん)に選ばれ、賀茂神社で不遇な生涯を送りました。
 賀茂斎院とは、皇族女性から選出されて賀茂神社での祭祀に奉仕する人をいいます。俗事を避けて清浄な生活を送る必要があり、恋愛や結婚はご法度です。
 その賀茂斎院となった式子内親王が、定家と恋歌を詠み合ったというのです。式子内親王が定家に贈った歌はこんなものです。
「いきてよも あすまで 人はつらからし 此夕暮を とはばとへかし」
(明日まで生きていられるかどうかも分からないのだから、私を訪ねてくるなら今日の夕暮れにお越しなさい)
 さらに、こんな伝説もあります。定家と式子内親王の道ならぬ恋を知った定家の父・俊成は、説得して別れさせようと定家の家にやってきました。定家は留守で、部屋には式子内親王自筆のこんな歌が残されていました。
「玉の緒よ 絶へなば絶へね ながらへば 忍ぶることの よはりもぞする」
(私の命よ、絶えるなら絶えてしまえ。長く生きてしまうと、耐え忍ぶことができなくなってしまうだろうから)
 これを見た俊成は、二人の決意を知って何も言わず帰ったといいます。しかし、式子内親王は建仁元(1201)年1月25日に病死したため、結局二人が結ばれることはありませんでした。
 これらの定家と式子内親王の恋愛エピソードは後世に創作された部分が多いのですが、定家の日記「明月記」には式子内親王を見舞ったことやそのときの病状が詳細に記録されており、両者の交流が深かったことは史実です。また、死の直前まで何度も見舞いに訪れているのに、病死後は日記で一切そのことに触れておらず、定家のショックが相当に大きかったことが窺い知れます。
 定家は後に百人一首を編纂しますが、式子内親王の「玉の緒よ……」の歌を選びつつ、自らの歌からは
「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」
を選出しています。来ぬ人を「待つ」ということと、淡路島の「松帆の浦」(兵庫県淡路市)という地名とを掛けたり、藻塩を焦がして塩を作ることと待ち人のために身を焦がすこととを掛けたり、技巧に富んだ歌といえるでしょう。恋歌という題意で詠んだだけで、必ずしも実際の恋愛に言及した歌かどうかは分かりませんが、定家のロマンチストな一面が表れた名歌だと思います。

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