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30年日本史00836【建武期】矢作川の戦いと鷺坂の戦い

 尊氏は自ら謹慎すると言い出し、髻(もとどり)を切って寺に籠もってしまいます。
 当時、髻を切るというのは武士を辞めることに他なりません。一同は衝撃を受け、もはや足利家も終わりかと噂し合いました。ちなみに尊氏が籠もった寺は、「梅松論」では浄光明寺、「太平記」では建長寺(いずれも鎌倉市内)となっており、ずれがあります。
 直義はやむなく尊氏抜きで出陣することとしました。今後の展開はもうお分かりでしょう。直義は尊氏抜きでは絶対に戦に勝てません。
 建武2(1335)年11月20日、直義は執事の高師直(こうのもろなお:?~1351)・師泰(もろやす:?~1351)兄弟らを引き連れて鎌倉を出発し、三河国で新田義貞を迎え討ちます。これ以降の後醍醐天皇方と足利家との一連の戦いを「建武の乱」といいます。
 11月25日。矢作川(愛知県岡崎市)を挟んで足利軍・新田軍は向かい合いました。
 新田義貞は参謀の長浜六郎(ながはまろくろう)に作戦を相談します。長浜は
「河岸を見ますと、向こう側の岸は高く切り立っており、こちらから川を渡っていくのは危険です。敵を挑発して敵に川を渡らせるようにしましょう」
と述べました。
 新田軍はわざと陣を少し退かせ、川を渡れる余裕を敵に与えました。すると狙い通り高師直らが川を渡って来たので、そこに浴びせるように矢を射かけたところ、足利軍に大きな被害を与えることができました。後に天才的な軍略を発揮する高師直ですが、この時点ではまだ戦が下手だったのですね。
 被害の大きかった足利軍は一旦退こうと、鷺坂(さぎさか:静岡県磐田市)まで陣を退きました。新田軍はこれを追いかけながら、京から追加で送られてきた宇都宮公綱・仁科重貞(にしなしげさだ:?~1359)らの援軍と合流します。ちなみに宇都宮公綱はかつて六波羅探題の配下として楠木正成と戦っていましたが、六波羅探題滅亡後は後醍醐天皇に仕えていました。このように、最後まで鎌倉幕府への忠義を全うしておきながらも、幕府滅亡後は許されて後醍醐天皇に降った者も多かったのです。
 宇都宮・仁科らは矢作川の戦いに間に合わなかったことを悔しがり、なんと鷺坂の敵陣に矢を放つことすらせず、いきなり馬で突っ込んでいきました。
 既に矢作川での敗北で士気が下がっていた足利軍は、なすすべもなく再び退却するほかありませんでした。手越河原(静岡市駿河区)まで退却していきます。
 負け続きの足利軍でしたが、ここで追加の援軍2万騎が合流し、再び士気が上がりました。手越河原で直義と義貞の最終決戦が始まります。

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