30年日本史00917【南北朝最初期】利根川の戦い
北畠顕家は霊山城(福島県伊達市)を拠点に北朝方と戦っていましたが、京を再び足利勢に奪われたとの知らせが入ってきました。「私があのまま京に残っていれば、みすみす尊氏などに奪還を許さなかったのに」と思ったでしょうが、顕家は再び上洛して足利勢と戦うことを決めます。
顕家が南朝方の諸将に上洛を呼びかけると、奥州の軍勢が次々と集まってきて、10万騎を超えたといいます。
延元2/建武4(1337)年8月19日。北畠顕家は後醍醐天皇の七男・義良親王とともに霊山城を出発し、白河の関を越えて下野国(栃木県)へと入りました。
12月8日。顕家は足利方の小山朝郷(おやまともさと:?~1346)が守る小山城(栃木県小山市)を陥落させました。
12月13日には利根川を挟んで、斯波家長率いる足利軍と対峙しました。斯波家長といえば、尊氏によって奥州管領に任命された人物ですね(00846回参照)。
双方の軍勢が両岸に並び、渡れる浅瀬がないか調べ始めますが、ちょうど雨で水かさが増している時期だったため、渡るのは無理そうです。両軍とも水が引くのをただ待つばかりでした。
このとき、北畠軍の中に斉藤実永(さいとうさねなが)という者がいました。源平合戦の時代に活躍した斉藤実盛(00478回参照)の子孫です。実永は顕家の前に進み出てこう述べました。
「これまで川を隔てて戦がなされたことは多くありますが、渡らないで勝ったことはありません。たとえ水が増して普段より深くても、この川は宇治、瀬田、藤戸、富士川に比べて勝ることはないでしょう。敵よりも早く我々が渡って、士気を高めて勝負を決しましょう」
これを聞いた顕家が
「合戦の道は武士に任せるのが一番だ。実永に任せよう」
と述べたため、実永は喜んで利根川を渡り始めました。
これを見た部井十郎(べいじゅうろう)と高木三郎(たかぎさぶろう)は、先陣を競おうとして同様に馬で川を渡り始めます。
実永は「人が渡ったところを渡るのでは手柄にならぬ」と二人に腹を立てて、あえてそこから上流の方に離れた場所を渡り始めました。
実永が渡った場所は流れが深く、やがて川に吞み込まれて実永もその馬も見えなくなり、沈んでいってしまいます。これを見ていた兵たちは
「あっぱれ、これこそ斉藤実盛の子孫なり」
と感心し、斉藤実永の名は上がった……と「太平記」は記すのですが、この無駄死にのどこが評価できるのか、現代人には理解できない感性ですね。
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