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30年日本史00684【鎌倉中期】日蓮と法華宗 数々の試練

 「立正安国論」によると、鎌倉に大規模な災害や飢饉が生じている原因は、念仏宗という悪法が流行していることにあります。災難を止めるためには、まずは為政者たる時頼が法華経に帰依して正しい仏道を志向する必要があるというのです。
 日蓮はさらに、
「このまま悪法への帰依を続けたならば、自界叛逆難(じかいはんぎゃくなん)と他国侵逼難(たこくしんひつなん)が生ずるであろう」
と予言しました。難しい言葉ですが、前者が内乱を指し、後者が外国からの侵略を指す言葉です。
 時頼は「立正安国論」を完全に無視しますが、日蓮が念仏宗を非難したとの話は鎌倉中に広まり、激しい反発を招きました。文応元(1260)年8月27日、松葉ヶ谷にあった日蓮の庵は多数の念仏宗徒によって襲撃されてしまいます。これを「松葉ヶ谷の法難」と呼びます。
 日蓮は鎌倉から下総国若宮(千葉県市川市)に逃れ、ほとぼりが冷めた弘長元(1261)年5月12日に鎌倉に戻りましたが、幕府に拘束され伊豆半島の伊東(静岡県伊東市)に流罪となりました。
 伊東では、日蓮を殺そうと考えた役人が俎岩(まないたいわ)という岩礁に日蓮を置き去りにしますが、そこを通りかかった弥三郎(やさぶろう)という漁師に助けられました。これを「伊豆の法難」と呼びます。後世の創作の可能性が高いといわれていますが、今も俎岩は静岡県伊東市の名所旧跡の一つです。
 弘長3(1263)年2月22日に赦免を受けた日蓮は、文永元(1264)年秋に地元・安房に戻り、病に倒れた母の看病に努めました。ところが日蓮がやって来たことを知った東条郷の地頭・東条景信は、11月11日、小松原(千葉県鴨川市)を歩いていた日蓮一行を数百人の手勢で襲撃します。弟子数名が殺され、日蓮自身も頭に傷を受けた上に左手を骨折するという重傷を負いました。これを小松原の法難といいます。
 その後、母の死を見届けた日蓮は鎌倉に戻ります。そして元が日本に帰属を迫る国書を送ってきたとの情報を得た日蓮は
「まさに自分の予言通りに外的来襲の国難がやってくるぞ」
と主張し、幕府に改めて法華経以外の信仰を止めるよう要請しました。
 幕府にとって、日蓮は再び邪魔な存在になってきたのです。

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