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30年日本史00462【平安末期】石橋山の戦い

 伊豆目代の山木兼隆を葬り、勢いを得た頼朝一行は、次に相模(神奈川県)へと進出します。味方の中に、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)を所領とする土肥実平(どいさねひら:?~1191)がいたので、そこに向かうことで味方を増やそうと考えたのでしょう。
 一行が石橋山(神奈川県小田原市)にさしかかったところで、これを迎撃しようとする勢力がありました。相模国大庭御厨(神奈川県茅ヶ崎市と藤沢市)を本拠とする大庭景親です。保元の乱で活躍した大庭兄弟の弟の方ですね。
 治承4(1180)年8月23日。頼朝は石橋山で大庭景親軍と向き合いましたが、このとき後方から頼朝を追跡してきた軍がありました。静岡県伊東市を本拠とする伊東祐親軍です。頼朝は挟み撃ちにされてしまったのです。
 頼朝軍が僅か100騎であるのに対し、大庭軍と伊東軍はあわせて3000騎。とても勝ち目はありません。一方的な戦闘となり、頼朝たちは命からがら敗走します。
 敗走中、北条家はリスク分散のため、時政と嫡男・宗時を別行動とし、それぞれ別の方向へと逃げていきました。その結果、宗時は敵に見つかり戦死してしまいます。のちに次男・義時が北条家の嫡子となったのは、この偶然によるものだったのです。
 頼朝はたった6人で「しとどの窟」というところに隠れました。洞窟とも、大きな木の幹が腐って空洞になったものだともいわれています。(木の幹に6人も隠れるのは無理だろうと思いますが。)この「しとどの窟」は現在、神奈川県真鶴町と湯河原町にそれぞれあり、どちらも観光スポットとして真贋を競っています。
 頼朝が隠れた「しとどの窟」に、大庭景親ら追っ手がやって来ました。
 大庭軍の一人が、洞窟内の頼朝を見つけ、目が合ってしまいます。頼朝は死を覚悟しますが、その武士は大庭景親に
「ここには誰もいないようだ。あっちの山を探そう」
と言って、去っていきました。頼朝を逃がしてくれたのです。
 頼朝が周囲の者に
「あの男は誰か」
と尋ねると、
「梶原景時(かじわらかげとき:1140~1200)という者です」
という答えがありました。頼朝は
「梶原か。覚えておこう」
と言って、このときの感謝を生涯忘れませんでした。梶原景時はこののち、頼朝の腹心として初期の鎌倉幕府を支える重臣となります。

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