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30年日本史00281【平安前期】六歌仙

 さて、紀貫之の「仮名序」はさらに歌人たちの論評を行っています。理想の歌人として柿本人麻呂と山部赤人を挙げ、次に比較的時代の近い6人の歌人を挙げて論評しています。
その論評があまりに辛口で、誰一人として手放しに褒められている者がいません。
・僧正遍昭(そうじょうへんじょう:816~890)
 歌のさまは得たれども誠すくなし。例へば、絵に書ける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。
・在原業平
 その心あまりて言葉たらず。しぼめる花の色なくて、匂ひ残れるがごとし。
・文屋康秀(ふんやのやすひで:?~885?)
 言葉はたくみにて、そのさま身に負はず。言はば商人の良き衣着たらむがごとし。
・喜撰法師(きせんほうし)
 言葉かすかにして、始め終わり確かならず。言はば秋の月を見るに暁の雲にあへるがごとし。
・小野小町(おののこまち)
 あはれなるやうにて強からず。いはばよき女の悩めるところあるに似たり。強からぬは女の歌なればなるべし。
・大友黒主(おおとものくろぬし)
 そのさまいやし。いはば薪負へる山びとの、花のかげに休めるがごとし。
 いやはや、「いやしい」とか「言葉が足りない」など酷評が並んでいます。紀貫之は変わり者で有名だったようで、和歌について相当な自負心があったのでしょうね。
 これら6名は後世に「六歌仙」と呼ばれるようになります。うち大友黒主を除く5名は百人一首に収録されているのでご存じの方も多いでしょう。
 こんな酷評を序文に入れることに、よく醍醐天皇がOKを出したものだなあと思いますが、とにかく古今和歌集は醍醐天皇の勅撰として発表され、話題を呼びました。名の売れた紀貫之には、あちこちから屏風歌の依頼が殺到したそうです。
 宇多・醍醐天皇の御世であった900~920年代にかけて、貫之は藤原兼輔(ふじわらのかねすけ:877~933)の庇護を受けていたようです。兼輔は「中納言兼輔」として百人一首にも入選している歌人であり、風流人として知られていました。兼輔の後押しがあって貫之は官職を得ることができました。この後の貫之の動向については、また後ほど紹介したいと思います。

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