30年日本史00832【建武期】中先代の乱終結
建武2(1335)年8月。合流した足利兄弟は矢矧から鎌倉を目指して東上します。ここから足利兄弟の快進撃が始まります。
それぞれの戦闘の詳細も、参加した武将たちがどんな人物だったかも不明ですが、とりあえず記録されている戦闘を箇条書きで記しておきましょう。
・8月9日 遠江国橋本(静岡県湖西市)で合戦し勝利
・8月12日 遠江国小夜中山(静岡県掛川市)で名越高邦(なごえたかくに)と合戦し勝利
・8月14日 駿河国府(静岡市葵区)で尾張次郎(おわりじろう)と合戦し勝利
・8月14日 駿河国清見関(静岡市清水区)で諏訪頼秀(すわよりひで)と合戦し勝利
・8月17日 相模国箱根(神奈川県箱根町)で三浦時明(みうらときあき)と合戦し勝利
・8月18日 相模川で合戦し勝利
・8月19日 相模国辻堂・片瀬原(神奈川県藤沢市)で合戦し勝利
見てのとおり、足利兄弟の連戦連勝です。
石原比伊呂「北朝の天皇」(中公新書)44ページに面白い記述があります。
「基本的には直義は合戦に勝てない。そうすると、例によって尊氏が救援に来る。(中略)尊氏は合戦にたまにしか負けないのである。直義が負けて、救援に駆けつけた尊氏が勝つというのは、ほとんどお約束のパターンであり、あらかじめシナリオが用意されていたのではないか、あるいは、『太平記』の作者など同時代人が事実とは無関係に状況をそのようなものとしてパターン認識していたのではないか、と錯覚さえする」
石原氏が指摘するとおり、
「直義が負けて、救援に駆けつけた尊氏が勝つ」
というパターンがこれ以降何度も繰り返され、読んでいて頭がおかしくなって来ます。「太平記」の作者による創作も一部にはあるのでしょう。ただ、中先代の乱に関していえば直義が鎌倉を脱出し、尊氏がそれを助けて勝利したことは間違いありません。
時行本人がこれらの戦いのうちどれに参加したのかは分かりません。ただ、8月19日の辻堂・片瀬原の戦いでは時行の養育係・諏訪頼重が敗北し、鎌倉の勝長寿院で自害に追い込まれていますので、おそらくこの戦いには時行自身も参加していたと考えられます。
そして頼重が自害したこの日、時行は生き延びて再起を図るべく、鎌倉を後にしました。
時行がその後どこをどう放浪したのか不明ですが、足利軍は鎌倉で多数の顔が剥がれた死体を発見し、時行は死んだものと判断してしまいます。当時、自害に当たって誰だか分からなくするために顔の皮を剥ぐのはよくあることだったようです。