見出し画像

30年日本史00256【平安前期】最澄と空海 後日談

 その後、最澄と空海は再び相まみえることはありませんでした。
 最澄は弘仁7(816)年に、「依憑天台集(えひょうてんだいしゅう)」という著書の序文に、
「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯ず」
(新たに出てきた真言宗という宗派は、文書による伝授をできないようにしている)
と書き加え、
「真言密教は面授(面と向かっての伝授)でなければならないとの空海の主張は、仏教の普及を妨げるものだ」
と批判しました。
 さて同年、空海は高雄山寺から高野山へ移り、嵯峨天皇から高野山金剛峯寺の開山を許可されました。
 最澄は滋賀県大津市の比叡山延暦寺という京から比較的近い場所を拠点としたのに対し、空海は和歌山県高野町の高野山金剛峯寺を拠点とし、都から遠ざかりました。延暦寺がその後政治に密接に関わり、たびたび強訴を起こすのに対し、金剛峯寺は政治から距離を置いたのです。
 ちなみに、両山は対立したまま交流がなかったのですが、平成21(2009)年6月15日、天台座主(てんだいざす)の半田孝淳(はんだこうじゅん:1917~2015)が高野山金剛峯寺を訪れ、弘法大師降誕祭に参列しました。このとき、真言管長(しんごんかんちょう)の松長有慶(まつながゆうけい:1929~)と会談し、天台宗・真言宗のトップ同士が遂に公式に会見したのです。仏教界では「1200年ぶりの和解だ」として、非常に話題になりました。
 さらに平成23(2011)年には、天台座主と真言管長が「震災後の社会に宗教が果たす役割について」と題して対談を行いました。仏教界も変わって来ているのですね。
 ちなみに、両者の対立のきっかけとなったのは、空海が理趣経について「本だけで学ぶのはダメ」と主張したことでしたね。
 しかし、外ならぬ真言管長の松長有慶氏が理趣経の入門書を出版しており、現在は面授なしに学ぶことが可能なのです。何だかなあ、と思ってしまいます。
 最澄と空海の対立は、どうも後世の我々から見ると、
「せっかく最澄が下手に出ているのに、空海が上から目線で失礼だよなあ」
と思えてしまいます。
 しかし、唐から命がけで持ち帰った経典を気安く借りるというのもそこそこ失礼なのかもしれません。我々には窺い知れない世界ですね。

この記事が参加している募集

#日本史がすき

7,408件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?