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30年日本史00577【鎌倉前期】清盛と頼朝

 頼朝が死去したところで、以前にも少し言及した清盛と頼朝の比較をしておきましょう。
 一般によく言われるのは、次のような議論です。
 いわく、摂関政治の時代、政府の最も重要な役割の一つである「治安維持」を担っていたのは武士であった。しかし当時は貴族がのさばっており、何も仕事をしない貴族が命懸けで仕事をしている武士を顎で使う時代であった。
 そうした時代に、貴族から実権を奪った武士が清盛と頼朝である。
 清盛率いる平家は武士でありながら貴族の真似事をして、和歌・蹴鞠・舞踊といった公家の文化を学び、上皇に取り入ることで政治上の実権を握った。しかし身も心も貴族となってしまった平家の公達は、武士としての鍛錬を怠り、戦には弱かった。
 一方、頼朝率いる鎌倉幕府は、あえて朝廷から距離を置いて関東に本拠地を置いたことで、京の貴族文化と異なる一大政権を築いた。清盛が公家のルールに則って権力を手にしたのに対し、頼朝は全く別のルールに基づく集団を作った。従って、武士の世を作ったのは清盛ではなく頼朝である。云々。
 しかし近年、こうした理解に疑義が呈されています。
 頼朝は京から距離を置くために鎌倉に本拠地を置いたのではなく、単に奥州藤原氏の勢力を恐れて鎌倉を離れられなかっただけかもしれません。また、清盛が娘・徳子を高倉天皇に入内させたのと同じく、頼朝も大姫を後鳥羽天皇に入内させようとしたのです。清盛が朝廷に取り入るのに成功し、頼朝が失敗したというだけなのに、
「頼朝は清盛と異なり、朝廷から距離を置いていた」
とするのは誤解ではないでしょうか。
 また、鎌倉幕府は公家の政治や文化を全く否定していたわけではなく、大江広元や三善康信を始めとする公家官僚を多く招いて重職に就けています。彼ら公家官僚が行政文書を作成し、朝廷が土地や人民を治めたのと同じ方法で鎌倉幕府は政務を執り行っていたのです。
 一方で、両者の政治目標は何だったのかを考えてみると大きな違いに気づきます。
 清盛は都を福原に移転することで宋との貿易を促進し、貿易による恩恵を国民に還元させようと考えていました。これは平安中期までの公家にはほとんどなかった清盛オリジナルの発想であったと思います。
 一方の頼朝は、朝廷から比較的独立性の高い政権を東国に作るという結果をもたらしましたが、その求めたものは「御家人が恩恵を受けられる世」だったと思われます。
 国民全体が享受できる利益を得ようとした清盛と、あくまでも武士の権利獲得を目指したに過ぎない頼朝。私はどちらが画期的であったかというと、清盛に軍配が上がると考えています。

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