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30年日本史00601【鎌倉前期】畠山重忠の乱 恋ヶ窪の伝説

 畠山重忠が死んだところで、彼をめぐる伝説について紹介しておきましょう。東京都国分寺市に「恋ヶ窪」という地名があり、そこに重忠にまつわる恋物語の伝説が残っているのです。
 畠山重忠は、本拠地である菅谷(埼玉県嵐山町)と鎌倉とを行き来する生活を送っていました。その鎌倉街道の宿場町であった恋ヶ窪宿で、重忠は夙妻太夫(あさづまだゆう)という遊女と恋仲になります。
 ある日、重忠は頼朝の命で西国へと旅立つこととなりました。平家討伐のための出陣で、生きて帰れるかどうか分かりません。夙妻太夫は
「一緒に連れていって欲しい」
と主張しますが、戦闘に女性を連れていくわけにもいかず、重忠は一人で西国へ向かいました。
 さて、重忠の身を案じていた夙妻太夫に対し、横恋慕してきた男が、
「重忠は壇ノ浦で討ち死にした」
と嘘を伝えてきました。二人の仲を裂いて、夙妻太夫を自分のものにしようとしたのでしょう。
 これを聞いた夙妻太夫は悲嘆に暮れ、池に身を投げてしまいました。この池は、遊女たちがたびたび自らの姿を映して見ようとしたということで、「姿見の池」と呼ばれており、今も恋ヶ窪にあります。
 夙妻太夫の死を悲しんだ村人たちは、夙妻太夫を葬った傍に松の木を植えました。すると松の木は重忠を追うように西へ西へと伸びていき、葉は一本しか生えませんでした。この不思議な松は「一葉松」と呼ばれ、恋ヶ窪の名物となっています。残念ながら当時の一葉松は枯れてしまい、現在あるのは3代目の松だそうです。
 その後、武蔵に戻ってきた重忠は夙妻太夫の死を知り、供養のために道成寺を建立した上、阿弥陀如来立像を安置しました。道成寺はその後「東福寺」と名を変え、現在も恋ヶ窪にあります。
 この重忠の恋物語は後世の創作と思われますが、こうした物語が語り継がれるほどに、重忠は庶民に人気がある武将だったのでしょう。重忠の領地ですらない恋ヶ窪にこうした伝説が残るということは、重忠は鎌倉街道沿いの住民たちにも優しく接していたのかもしれません。

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