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30年日本史00182【飛鳥】孝徳天皇崩御

 大化6(650)年2月15日。長門国(山口県)から珍しいものが献上されました。白い雉です。おそらくアルビノのことでしょう。これは縁起がいい、ということで、元号が「白雉(はくち)」と改められました。初めての改元です。
 現代と異なり、天皇が即位するタイミング以外にも元号は次々と変えられていたのです。
 白雉4(653)年。中大兄皇子は突然、
「難波長柄豊碕宮を引き払って飛鳥に都を戻したい」
と提案します。豪族の影響力をそぎ落とすために飛鳥から離れてみたものの、やっぱり不便だということになったのでしょう。あるいは豪族にそっぽを向かれたままではやはり政治ができないということに気づいたのかもしれません。
 しかし、孝徳天皇はこれを拒否します。「難波に住み慣れてきたところなのに、今更帰れない」というわけです。私の憶測ですが、中大兄皇子があくまで政治的に、豪族と妥協するための判断を下したのに対して、政治的センスに欠ける孝徳天皇が、単に住み慣れたからという情緒的な理由で動きたくないと言って拒否したのではないでしょうか。
 中大兄皇子の対応は冷淡でした。「ではご勝手になさりませ」と言って、群臣を引き連れて勝手に飛鳥へ戻ってしまったのです。
 孝徳天皇は皇后・間人皇女に対して、すがるように
「お前は残ってくれるだろうな」
と言いますが、間人皇女もまた
「私は兄上とともに戻ります」
と言って飛鳥に去ってしまいました。
 こうして、孝徳天皇だけが難波に取り残され、難波長柄豊碕宮は完全に政治機能を失いました。孝徳天皇は悲憤のあまり退位しようとしますが、退位すら許されませんでした。
 孝徳天皇の周辺には、国博士の旻が残っていたそうです。その旻が病に倒れると、孝徳天皇はこれを見舞い、「そなたが死んだら私も死ぬだろう」と述べたそうです。
 その後、旻が死に、悲嘆に暮れた天皇もまた病床につき、白雉5(654)年10月10日に孝徳天皇は崩御しました。孝徳天皇の遺児、有間皇子(ありまのみこ:640~658)は中大兄皇子への遺恨を膨らませ、これが次の政変へとつながっていくことになります。
 孝徳天皇が崩御したことをもって、元号は廃止されました。本来ならば新たな元号を作るべきなのですが、ここから30年以上放置されてしまいます。ここからは、「斉明天皇元年」「斉明天皇2年」……といった具合に、再び天皇名に数字を付ける形で年号を表記する形式に戻ります。
 中大兄皇子は唐にならった国家を作ろうという強い意志を持っているはずなのですが、なぜ元号を作らなかったのか、よく分かっていません。

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