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30年日本史00788【鎌倉末期】六波羅探題滅亡 篠原から番場へ

 一行はどうにか逢坂山を抜けて近江国(滋賀県)に入りましたが、今度は篠原(滋賀県近江八幡市)で500人もの野武士に囲まれてしまいます。
 六波羅軍の中吉弥八(なかよしやはち)という武士が
「一天の君が関東に行幸するのを邪魔するのか」
と述べますが、野武士は
「通りたければ馬具を全て置いていけ」
と述べ、通してくれません。
 一計を案じた中吉は、
「六波羅に銭を埋めたところがあるから案内する」
と言って野武士たちを京の六波羅へと誘導することで、どうにか一行を通してもらうことに成功しました。
 その後中吉は、野武士たちを六波羅まで案内した後、
「確かにここに埋まっていたのだが、誰かが既に掘り返したようだ。貴殿は耳たぶが薄いし、運がなかったようだ」
などとうそぶいて、上手く逃げおおせることができたといいます。よく殺されずに済んだものですね。
 さて、元弘3/正慶2(1333)年5月9日になりました。これが六波羅探題最後の1日となります。
 普恩寺仲時率いる六波羅軍は、もはや700騎にまで減っていました。仲時は、糟屋宗秋(かすやむねあき:?~1333)に先鋒を命じて待ち構えている野武士を先に掃討するよう命じるとともに、六角時信に殿(しんがり)を命じて後ろから追撃してくる倒幕軍を防ぎ止めるよう命じました。
 そして一行が番場宿(滋賀県米原市)に差しかかったとき、500人もの軍勢が待ち構えているのが見えました。糟屋宗秋は勇ましくも
「野武士どもだ。命を懸けて戦うような者どもではあるまい。蹴散らしてくれる」
と言って、僅か36騎で突っ込んでいき、満身創痍になりながらも見事これを撃退しました。
 一安心した糟屋でしたが、そこで霧が晴れて道の向こうが露わになると、呆然としました。行く先には5千人もの次なる軍勢が待ち構えていたのです。
 いかな勇猛果敢な糟屋軍といえども、もはや糟屋たちにはもう一戦交えるほどの体力も気力も残されていませんでした。

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