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30年日本史00599【鎌倉前期】畠山重忠の乱 馬を背負う*

 さて、畠山重忠はどういう人かというと、「気は優しくて力持ち」を地で行く人物だったようです。
 その武勇を示すエピソードとしては、義経が平家と戦った一ノ谷の戦いでの伝説的挿話があります。このとき、畠山重忠は義経率いる奇襲軍に参加していたのですが、義経たちが鵯越の崖を駆け下りたとき、重忠だけは名馬「三日月」が怪我をすることを恐れて、馬を背負って崖を駆け下りたというのです。さすがに後世の創作でしょうが。
 この伝説的な瞬間が、重忠の居城であった武蔵国畠山郷(埼玉県深谷市畠山)の「畠山重忠公史跡公園」内に銅像として残されています。重忠が馬を背負った形の像が作られているのです。
 余談ですが、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、鵯越の崖を降りる際に畠山重忠が
「馬を背負ってでも降りてみせます。末代までの語り草になりそうです」
と話すシーンだけがあり、実際に馬を背負うシーンはありませんでした。つまり、重忠がジョークで話したことがそのまま伝説として残ってしまったという解釈ですね。
 さて、畠山重忠の居城はもう一つあります。武蔵国菅谷(埼玉県嵐山町)の菅谷館(すがややかた)です。ここには畠山重忠の烏帽子姿の銅像があり、重忠の人気の高さが分かります。
 重忠は怪力の持ち主で数々の武功を上げておきながら、決してそれに驕ることはありませんでした。
 例えば、奥州合戦で捕虜となった由利八郎の取調べのエピソードが有名です。最初に梶原景時が取り調べたところ、景時の傲慢な態度に怒った由利八郎は何一つ喋らなかったのに対し、続いて重忠が取調べに当たると由利八郎は尋問に素直に応じ始め、
「先ほどの男(景時)とは雲泥の違いだ」
と述べたといいます。
 義時・時房は、そのような重忠の性格をよく知っていて、謀反など起こすわけがないと判断したのでしょう。
 息子二人に命令を拒否された時政は、さすがに畠山追討を諦めましたが、牧の方は諦めません。牧の方が義時に使者を派遣し、
「なぜ畠山の悪事を許すのか」
と詰問を重ねたため、義時はやむなく畠山追討を承諾してしまいます。

畠山重忠公史跡公園の馬を背負った重忠像。深谷では畠山重忠と渋沢栄一が二大英雄として顕彰されている。

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