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30年日本史00582【鎌倉前期】安達景盛誅殺未遂*

 建久10(1199)年7月16日。2代将軍頼家はさらに専横を極めます。
 安達盛長の子・景盛(かげもり:?~1248)の愛妾が美しいという評判を聞いて、これを自分のものにしようと画策した頼家は、理由をつけて景盛を三河国に遣いに出しておいて、その隙に安達景盛の妾を呼び、寵愛し始めました。
 鎌倉に戻った景盛は頼家の所業を知って激怒しますが、それを聞いた頼家は8月19日、逆に景盛に腹を立ててこれを誅殺せよと側近に命令しました。命を受けた側近たちが兵を連れて安達邸を取り囲みますが、これを止めに入ったのが政子でした。
 政子は安達邸の門前に立ち、
「景盛に一体何の罪科があるというのか答えてみよ。罪科があるというのなら、私が処置しよう。それすら尋ねることなく景盛を殺すというならば、まず私を射てからにせよ」
と声を張り上げました。そのあまりの迫力に、さすがの御家人たちも色を失い、襲撃をやめて帰っていきました。
 その翌日、政子は頼家を呼び、こっぴどく説教しました。
「安達景盛を誅殺しようとしたのは軽率の至りである。今の頼家の態度を見ると、全く天下を守護する役割を担っているとの自覚がない。政治に飽きて民の憂いを知らず、娯楽にうつつを抜かして人々の非難を顧みない。また、召し使う者に賢人はおらず、佞臣の類ばかりである。頼朝様は私の親族である北条を近くに置いて使っていたのに、頼家は彼らを使わないどころか、しきりに実名で呼ぶので皆、恨みを持っている。よくよく気を付けて、秩序を乱さぬように」
 確かに頼家は近くにイエスマンばかりを置いており、「佞臣の類」というとそのとおりかもしれません。しかし政子が「北条を使え」としきりに身内ばかりひいきするのもいかがなものかと思われます。
 また、政子は
「御家人を呼び捨てにするのもよくない」
と説教していますね。
 この時代、諱(いみな)で人を呼ぶことは大変無礼とされていました。頼朝のように棟梁として一目置かれたボスが「(北条)時政」「(和田)義盛」などと呼びかけるのは許されたのでしょうが、16歳で家督を継いだばかりの頼家が同じように御家人に呼びかけるのは、確かに物議をかもしたことでしょう。

甘縄神明神社の前にある鎌倉青年団が建てた「安達盛長邸跡」の碑。盛長の子・景盛も当然同じ場所に住んでいたはずだが、今は安達邸はここではなく、鎌倉歴史文化交流館の場所だったとの説が有力。

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