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30年日本史00694【鎌倉中期】弘安の役 志賀島の戦い

 弘安4(1281)年6月6日。博多湾からの上陸を断念した東路軍は、志賀島に上陸してここを占領してしまいます。志賀島は本土から砂洲でつながった陸地で、「漢委奴国王」の金印が発見されたことでも有名な場所ですね(00050回参照)。
 あまりの大軍団のため御家人たちは攻撃を躊躇していましたが、その日の夜、唐津の御家人・草野経永(くさのつねなが)は、少人数で小舟を使って夜襲をかけました。東路軍の船団のいくつかに放火して帰ってきたのです。大きな被害を与えたわけではありませんが、東路軍は「離れていると危険だ」と考え、それ以降、船と船を鎖で連結させるようになりました。敵が襲ってきても、すぐに他の船から援軍を出せるようにするためです。
 この偶然が、後に元軍に大きな災いを招くこととなるのです。
 6月8日朝、日本側は軍勢を二手に分け、一方は海路から、もう一方は陸路から、それぞれ志賀島の東路軍に総攻撃を行いました。
 陸路から攻め入った日本軍に対し、東路軍は矢で必死に応戦しますが、劣勢となり軍船へと逃げ込んでいきます。司令官の一人、洪茶丘が馬を捨てて敗走し、危うく討ち死に寸前まで追い詰められたといいますから、相当な混戦だったのでしょう。
 その軍船に乗り込んだ兵たちを、海路からやって来た日本軍が追撃します。河野通有は石弓によって負傷しながらも、元軍の船に横付けして斬り込んでいき、多数の兵を倒すとともに将校クラスの者を生け捕るという大手柄を立てました。
 翌6月9日まで続いた志賀島の戦いは、日本軍の大勝利に終わりました。東路軍は約5万人もの人員を擁していながら、狭い志賀島や船内では兵の多さを活かし切れず大敗しました。東路軍はやむなく志賀島を放棄し、壱岐まで後退して応援を待つこととしました。
 前述のとおり、東路軍約5万人に対して応援にやって来る江南軍は約10万人です。自軍の倍近い援軍がやって来れば、負けるはずがありません。
 しかし待ち合わせの日、6月15日になっても江南軍は現れません。江南軍はアラカン(?~1281)を総大将として出発の準備をしていたのですが、出発直前にアラカンが病に倒れ、そのまま死去してしまったので、慌ててアタハイ(1234~1289)を総大将に据えて編成を組み直しているうちに時間が経過してしまい、結局江南を出発したのは6月18日のことでした。
 日本側は、壱岐を占領し続ける東路軍を見て、
「援軍が来るのだな」
と察知したようです。援軍が来る前に叩いてしまえとばかりに、6月29日、日本軍は東路軍への総攻撃を開始します。

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