見出し画像

30年日本史00265【平安前期】55代文徳天皇即位

 嘉祥3(850)年3月19日。39歳の仁明天皇が危篤となり、子の道康親王(23歳)に譲位しました。道康親王は即位し、文徳天皇となります。その僅か2日後に、仁明天皇は崩御しました。
 さて、文徳天皇には藤原良房の娘が嫁ぎ、最近子が産まれたばかりでした。
 藤原冬嗣の娘が仁明天皇に嫁ぎ、その間に産まれた文徳天皇に良房の娘が嫁いでいたわけですから、冬嗣・良房父子が一貫して嵯峨系の皇子たちと縁を結んできたことが分かりますね。
 その文徳天皇の子、惟仁親王(これひとしんのう:後の清和天皇:850~881)は、生後8ヶ月で皇太子となりました。僅か生後8ヶ月での立太子は前代未聞のことでした(その後はよくあることなのですが。)。力をつけ、発言権の増した良房が、自らの孫を強引に皇太子につけたものと思われます。
 同年5月4日、嵯峨天皇の皇后だった橘嘉智子が死去しました。
 橘嘉智子は見る者が驚く絶世の美女だったと伝えられています。橘氏から出た唯一の皇后で、杉本苑子著『檀林皇后私譜』という伝記小説も出版されています。
 橘奈良麻呂の変について取り上げたとき、
「続日本紀には奈良麻呂だけがどのような刑に服したのかが書かれていない」
という謎についてご紹介しましたね(00226回参照)。この嘉智子が皇后になった際に、祖父・奈良麻呂にとって不名誉な部分を削除したのではないかとも言われています。
 その嘉智子は、死に際に当たっておかしな遺言を残しました。「亡骸は埋葬せずに道端に放置せよ」というのです。
 嘉智子の遺体は放置され、鳥や獣に荒らされて、腐って蛆にまみれ、白骨化していきます。この情景をもとに、「檀林皇后九相図」が作られました。
 「九相図」というのは、仏教の教義を啓蒙するための絵です。美女の死体が徐々に腐っていく様子を描いたもので、
「美しいものもいつかは壊れるのであるから、現世の刹那的な価値観に惑わされてはならない」
ということを教えるためのものです。嘉智子は自らの死を利用して九相図を作らせたのです。
 そのとき作られた「檀林皇后九相図」は、現在京都市の西福寺に保管されていますが、真に嘉智子の遺言によって作られたものかどうかは疑問視されています。後世に作られたものとの説が有力です。

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?