見出し画像

30年日本史00226【奈良】橘奈良麻呂の変

 さて、聖武上皇の遺言によって、道祖王(ふなどおう:天武天皇の孫:?~757)が皇太子に立てられました。しかし、天平勝宝9(757)年3月29日。道祖王は「淫行にふけり、宮中の大事を外に洩らした」ため、孝謙天皇が追放したといいます。しかし具体的にどう淫行し、どう情報を漏洩したのかは分かっていません。単に孝謙天皇とそりが合わなかっただけかもしれません。
 皇太子が廃されたため、藤原仲麻呂の意見具申により、大炊王(おおいおう:天武天皇の孫:後の淳仁天皇:733~765)が皇太子となりました。仲麻呂の権勢は全盛期で、遂に皇位継承にまで介入できるようになったようです。
 その仲麻呂政権に対し、打倒の声を挙げた者がいました。橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)です。橘諸兄の子であり、一時期はその後継者と目されたはずの奈良麻呂は、藤原仲麻呂に阻まれて全く出世できず、不満を感じていたようです。父・諸兄が死去して以来、橘家は鳴かず飛ばずとなったため、その鬱屈が遂に爆発したということでしょう。
 奈良麻呂の立てた計画は、大伴古麻呂に美濃国不破関(岐阜県関ヶ原町)を閉鎖させ、都で仲麻呂邸を襲撃し、孝謙天皇を廃位させて、
・道祖王
・塩焼王(しおやきおう:天武天皇の孫:?~764)
・安宿王(あすかべおう:長屋王の子)
・黄文王(きぶみおう:長屋王の子:?~757)
のいずれかを皇位につけようというものでした。鑑真を日本に連れ帰ったあの大伴古麻呂が、反乱計画に参加していたのです。
 天平勝宝9(757)年7月4日。奈良麻呂の計画が実行される直前に、計画に加わっていた小野東人(おののあずまひと:?~757)が捕らえられ、拷問により計画を自供したことで、計画は失敗に終わりました。大伴古麻呂、道祖王、黄文王は死ぬまで杖で叩かれ続け拷問死させられたと伝えられています。
 また、死ぬ直前、道祖王は麻度比(まどい=惑い者)、黄文王は久奈多夫礼(くなたぶれ=愚か者)と改名させられました。改名によって辱めようというのは、唐の刑罰を導入したものでしょう。そうだとすると、この事件における処罰は、唐の制度にかぶれた藤原仲麻呂が主導で決定したものと考えられます。
 なお、このとき塩焼王も逮捕されますが、証拠不十分で釈放されています。塩焼王はこの後幾度も反逆を企てることとなります。
 この事件を「橘奈良麻呂の変」といいます。不思議なことに、首謀者である橘奈良麻呂がどうなったのか、「続日本紀」は伝えていません。他の者との整合を考えると、やはり拷問死したと考えるのが普通でしょう。だいぶ後になって、奈良麻呂の孫娘が皇后になるのですが、その皇后が祖父の不名誉な話を歴史書から削除したのかもしれません。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?