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30年日本史00807【鎌倉末期】菊池武時戦死

 菊池は少弍に決起を呼びかけるべく、八幡宗安(やわたむねやす:?~1333)という家臣を派遣して伝達しますが、幕府方についてしまった少弐はあろうことか、その八幡宗安を討ってその首を鎮西探題に差し出してしまいます。
 これを知った菊池武時は激怒し、単独で反乱をやり切ろうと決意します。
 元弘3/正慶2(1333)年3月13日。菊池武時は僅か150騎の手勢で鎮西探題の館へ向かいました。この途上、櫛田宮(現在の櫛田神社:福岡市博多区)の前で突然菊池の乗る馬が立ちすくむというハプニングがありました。
 菊池武時が
「どんな神か知らぬが、この菊池が戦に向かうのに馬のまま通り過ぎるのをお咎めになる神があろうか。ならば矢を進上いたす」
と言って鏑矢を2本神殿の扉に打ち込むと、馬のすくみが元に戻って進軍を続けることができました。
 後に社殿を見ると、大蛇が矢に当たって死んでいたといいます。出来過ぎた話ですね。
 菊池武時が鎮西探題の館に正面から攻め込むと、幕府方についた少弍貞経・大友貞宗が菊池の背後から攻め寄せてきました。圧倒的な兵力差で、菊池勢はもはや絶体絶命です。一旦退却し、袖ヶ浦という場所で最後の突撃のために軍勢を整えた武時は、嫡男の武重(たけしげ:1307~1338)を呼びました。
「私はここで討ち死にするから、お前は館に帰って遺恨を晴らしてくれ」
 武重は父と共に死ぬと主張しますが、武時は
「菊池の名を残すため、あくまでも生き延びよ」
と諭し、自らの衣服の袖を切って、辞世の歌を書きつけました。
「故郷に 今夜ばかりの 命とも 知らでや人の われを待つらむ」
(遠い故郷に、私が今夜までの命とも知らぬ家族や家臣らが私を待っているだろう)
 父の頑なな気持ちを知り、武重はやむなく博多を立ち去りました。これが「袖ヶ浦の別れ」として知られる伝説なのですが、袖ヶ浦が現在のどこに当たるのか、よく分かっていません。
 その後武時は、次男の頼隆(よりたか:?~1333)ら70名あまりを引き連れて鎮西探題に攻め入りましたが、全員が討たれました。
 嫡男を助けておきながら、次男の方は死んでも良いのかと不思議な気持ちになる逸話ですが、当時は命よりも家の存続こそが重視されていたのでしょう。

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