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30年日本史00532【鎌倉初期】文治の勅許

 「日本第一の大天狗」との交渉は難航しそうだというので、頼朝は側近の北条時政を上洛させることとしました。時政は文治元(1185)年11月24日に京に到着します。
 11月28日。北条時政は院に参内し、「義経追討のため」との名目で、守護・地頭を設置したいと奏請しました。
 守護とは国ごとに置くものです。国ごとに置く地方行政機関としては、既に朝廷が置いている国司があるのですが、それとは別に頼朝率いる鎌倉勢は「謀反人たる義経を逮捕するために必要だから」というストーリーの元に国ごとに守護を置くというのです。この守護は、実際には義経追討の目的のみならず、鎌倉幕府による地方行政への足がかりとなります。
 一方、地頭というのは荘園ごとに置かれるものです。寿永二年十月宣旨によって、頼朝は東国の荘園からの年貢の徴税権を得ているのですが、この徴税を徹底するために地頭を置く必要があるというのです。
 11月29日にこれが認められ、鎌倉勢は東国を支配するための体制を整えました。これを「文治の勅許」といい、現在の歴史教科書の多くはこれをもって鎌倉幕府が成立したとの見解に立っています。「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」から「いい箱(1185)作ろう鎌倉幕府」になったというわけです。
 守護・地頭の設置というのは、元は大江広元が頼朝に対して建議したものでした。大江広元は、諸説ありますが大江匡房の曽孫とも考えられている公家で、身分が低く朝廷では昇進できないと考え、頼朝に仕えるようになった官僚です。
 頼朝のすごいところは、こうした文人官僚を都から大勢スカウトして、重用しているところです。当時の鎌倉幕府の御家人たちは、幹部であっても字の読み書きができない者がたくさんいました。頼朝から御家人に命令書を下すにも、朝廷との間で交渉を行うにも、都の文化を知り尽くし、形式にのっとった文書を書ける人材は不可欠でした。
 頼朝がスカウトした文人官僚の中で最も重要な人物が大江広元ですが、そのほかにも
・三善康信(みよしやすのぶ:1140~1221)
・中原仲業(なかはらなかなり)
などが頼朝に仕えています。
 さて、文治の勅許を得た北条時政は、さらに朝廷の人事に口を出し始めます。12月6日、後白河法皇に高階泰経ら14人の解官を迫り、17日にこれを認めさせたのです。
 さらに大きかったのは、12月28日に九条兼実の内覧就任を認めさせたことでしょう。九条兼実は、平家とも木曽義仲とも距離を置いていたため、頼朝や時政は「取り込めそうな相手」と考えたものとみられます。

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