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30年日本史00596【鎌倉前期】北条時政の伝説

 さて、北条時政が初代執権の座に就いたわけですが、この時政とはどのような人物だったのでしょうか。
 まず北条氏の出自については、平忠常の乱を鎮圧した平直方(00356回参照)を祖先に持つ一族だと記録されています。しかし、これは北条氏が自称した話であって史実ではないでしょう。この時代、自身の系譜を捏造して長い歴史を持つ家系だと自称するケースはよくみられることでした。
 北条氏は伊豆国北條(静岡県伊豆の国市北條)を領地とする在地豪族で、さほど有力な家柄ではなかったと考えられます。北條という地名も「北條」「中條」「南條」「上條」と並んだ区画の中の一つに過ぎず、北の区分をたまたま任されていた者が北条という姓を名乗っていたに過ぎないのです。「吾妻鏡」では時政について「当国(伊豆国)の豪傑」と記しつつも、その前半生や祖先について事績を何一つ記していないのは、何も伝わっていないからでしょう。
 いずれにせよ、その小豪族に過ぎなかった北条時政は、伊東祐親に命を狙われた頼朝を匿ったことで、一躍歴史の表舞台に駆け上がります。貧乏くじと思われたくじが特賞に当選したようなものです。
 時政は戦闘ではほとんど活躍を見せていませんが、京に乗り込んで後白河法皇率いる朝廷と強気の交渉を繰り広げ、文治の勅許を得るなど大きな功績を挙げています。一方で、これまで述べてきたように比企一族と頼家を殺害するなど権力掌握のためには手段を選ばない冷酷さもみられます。たった一代で鎌倉幕府の実質的支配者に上り詰めたわけですから、卓越した政務能力の持ち主であったと考えられます。
 時政については、こんな伝説が残っています。時政が江ノ島神社で子孫繁栄を祈っていると弁財天が現れ、
「お前は7代に渡って日本の王となる」
と述べ、大蛇となって三つの鱗を残して去っていったというのです。北条氏の家紋はその「三つ鱗」から取られています。ちなみに時政・義時・泰時・時氏・時頼・時宗・貞時と直系子孫7代に渡って北条氏は栄え、8代目の高時の時代に滅びるわけですから、弁財天の予言通りに歴史は進んだといえます。
 2代将軍頼家が殺され、3代将軍実朝の代わりに執権時政が実権を握ったこの瞬間から、鎌倉幕府の将軍は傀儡になり下がりました。その幕府体制を決定付けたのは時政という個性ある為政者の存在であったといえるでしょう。

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