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30年日本史00764【鎌倉末期】日野資朝・俊基らの処刑*

 楠木軍と六波羅軍の戦いの続きが気になるところですが、元弘2/正慶元(1332)年6月には元弘の乱に参加した者たちの刑が次々と執行されたので、その話をしましょう。時系列に沿うと話があちこちに飛んでしまうのですが、仕方ありません。
 6月2日。正中の変で配流されていた日野資朝が、遂に佐渡で処刑されることとなりました。日野資朝の子・阿新丸(くまわかまる:後の日野邦光:1320~1363)は、幕府から身を隠すため仁和寺に匿われていたのですが、父が間もなく処刑されると聞き、単身佐渡島へと赴きました。
 阿新丸は、佐渡の守護代を務める本間泰宣(ほんまやすのぶ)に
「父に会わせよ」
と懇願しますが、本間は哀れに思いながらも対面を許しません。資朝の斬首を甥の三郎(さぶろう:?~1332)に執行させ、その遺骨を阿新丸に渡しました。
「このままでは帰れぬ」
と激怒した阿新丸は、三郎の寝所に忍び入り、これを殺害してしまいます。そのまま逃亡し、山伏に匿われて島を脱出したといいます。何とも危険な冒険に出たものです。
 一方、資朝の遠縁に当たる日野俊基もまた、6月3日、鎌倉の葛原岡にて処刑されました。その最期の地には「葛原岡神社」が建てられ、俊基が祀られています。
 後醍醐天皇の側近で、この月に処刑された人物はもう一人います。北畠具行(きたばたけともゆき:1290~1332)です。具行は佐々木道誉に連れられ、処刑されるかどうかも分からないまま東国へ連れて行かれることとなりました。
 逢坂の関を越える際、具行は
「帰るべき ときしなければ 是やこの 行くを限りの 逢坂の関」
と詠みました。百人一首にも入っている蝉丸の「これやこの 行くも帰るも 分かれては 知るも知らぬも 逢坂の関」をもじった歌ですね。「行くを限りの逢坂の関」とは、帰って来られないことを想定したものでしょう。
 6月19日になって、近江柏原(滋賀県米原市)に着いたところで佐々木道誉は北畠具行に処刑する旨を伝えました。道誉は後醍醐天皇を隠岐まで護送したときの話をして
「(天皇に)短期間お仕えしただけでも恐れ多く感じたのに、まして長くおそばで仕えた方のお気持ちはよく推察できます。あまりに優れたご器量なので、この廃れた世では不運でおられたのでしょう」
と述べ、これを聞いた具行は涙を流して道誉の温情に感謝したといいます。
 具行はその場で出家した後、速やかに処刑されました。辞世は
「消えかかる 露の命の 果てはみつ さてもあづまの 末ぞゆかしき」
でした。「鎌倉幕府(あづま)の果てはどうなるのか楽しみに見ているぞ」という皮肉たっぷりの歌ですね。

日野俊基が斬られた場所には「葛原岡神社」が建てられ、鎌倉青年団の碑もある。

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