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30年日本史00633【鎌倉前期】承久の乱 木曽川/砺波山の戦い

 鎌倉を出撃した御家人たちは、東海道・東山道・北陸道の3つの経路に分かれて京を目指します。経路を分けたのは、各地の武士を広く集めるためでしょう。
 承久3(1221)年5月26日。後鳥羽上皇のもとに、武士たちが鎌倉を出撃したとの知らせが届き、上皇はひどく動揺しました。まさか朝廷に歯向かうとは思っていなかったのでしょう。
 上皇は慌てて西国から兵を徴収しようとしますが、間に合いません。現時点で兵力は2万人。幕府軍に比べて圧倒的に不利な人数差です。
 藤原秀康は総大将として出撃し、美濃(岐阜県)と尾張(愛知県)の国境である尾張川(現在の木曽川)に布陣しましたが、戦慣れしていない秀康は、少ない兵力を12箇所に分散配置するという愚策をとってしまいます。朝廷軍に仕える山田重忠(やまだしげただ:?~1221)が、
「早く渡河して尾張国府に布陣すべき」
と進言しましたが、容れられませんでした。
 6月5日。秀康率いる朝廷軍1万7千騎と泰時・時房ら率いる幕府軍5万騎との戦いが始まりましたが、まるで勝負になりません。翌6日には不利と見た秀康が全軍退却を命じる中、山田重忠は
「ここで逃げては武士の名折れだ」
と僅か300騎で尾張川に残りました。
 敵を退却させた幕府軍は、容易に尾張川を渡れるだろうと油断していましたが、山田重忠らに矢を射かけられ、100名近い犠牲を出すこととなりました。幕府軍に一矢報いた山田重忠もまた、京に戻って次の戦に備えることとなりました。
 その後、地元の人々によって尾張川の戦いで戦死した兵たちの供養塔が作られ、現在も岐阜県各務原市矢熊山に安置されています。
 尾張川の戦いの敗報を聞いた後鳥羽上皇は、6月8日に自ら比叡山に登って僧兵たちの協力を求めましたが、比叡山延暦寺に拒否され、むなしく京に戻るほかありませんでした。
 さらに、名越朝時率いる北陸道を進む幕府軍4万騎も、6月9日の砺波山(富山県砺波市)の戦いに勝利し、京に駆けのぼっていきます。名越朝時は義時の次男ですが、前述のとおり鎌倉の名越の地に屋敷を構えたので名越姓で呼称されることが多い人物です(00594回参照)。
 6月10日。もはや敗北を悟った後鳥羽上皇は、西園寺父子の謹慎を解きました。この後やってくる幕府との和平交渉に当たらせるためでしょう。
 藤原秀康率いる朝廷軍は、全軍を宇治(京都府宇治市)と瀬田(滋賀県大津市)に布陣させました。いよいよ最大の合戦である瀬田橋の戦いと宇治川の戦いが始まります。

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