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30年日本史00455【平安末期】宇治橋の戦い 以仁王の最期

 平家方は、宗盛の命令通り滝口競を生け捕りにしようとしました。宗盛に屈辱を与えた競は、鋸引きにして苦痛を与えて殺そうと考えていたのです。
 しかし競が近づいた兵を次々と斬り殺すため、容易には近づくことができません。あまりに多くの犠牲が出てしまったため、平家方はやむなく生け捕りを断念し、激しく斬りかかるほかありませんでした。
 こうして競はさんざんに戦った後で自害してしまいました。最後の最後まで「宗盛の思い通りにはさせまい」という豪気を感じます。
 さて、以仁王は頼政らが時間を稼いでくれている間に、少数の兵とともに興福寺を目指して逃走していました。しかし綺田(かばた:奈良県木津川市)で平家軍に追いつかれてしまいます。
 平家軍は以仁王らを見つけると、逃すまいと次々に矢を射かけました。このうち、誰が放ったか分からない矢が腹に当たり、以仁王は致命傷を負いました。「敵の手にかかるよりは」と思った以仁王は側近に介錯して自害したとも、あるいは側近が抱き起したときには既に事切れていたともいわれています。
 こうして、治承4(1180)年4月9日に平家追討の令旨を発した以仁王は、それから2ヶ月足らずの5月25日に呆気ない最期を迎えました。平家一門はほっと胸をなで下ろしたことでしょう。
 5月27日には、清盛は朝廷に「園城寺と興福寺を朝敵とすべし」との議題を提出しました。以仁王を匿った園城寺と、以仁王に味方することを決めた興福寺を断固討伐すべきだというのです。
 この評定は揉めに揉めました。平家派の参議・土御門通親(つちみかどみちちか:1149~1202)と、アンチ平家派の参議・九条兼実とが対立したのです。
 土御門通親は
「園城寺・興福寺とも即座に討伐軍を差し向けるべき」
と主張しました。完全に清盛に追随する意見です。通親は「高倉上皇も同意見ではないか」などと述べて一同を牽制します。
 これに対し、九条兼実は、
「園城寺はともかく、興福寺に対してはまずは申し開きに耳を傾けるべきだ」
と述べました。興福寺は単に以仁王に書状を送って味方する旨を告げただけで、実際に決起したわけではないのですから、まずは穏当に事を運ぼうとしたのです。
 結果は九条兼実の主張が通り、興福寺は朝敵とならずに済みました。この後も、九条兼実と土御門通親は事あるごとに対立し、熾烈な政治闘争を繰り広げていきます。

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