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30年日本史00806【鎌倉末期】菊池・少弐・大友の反逆

 さて、元弘3/正慶2(1333)年5月9日に番場において六波羅探題が滅亡し、5月22日には東勝寺において鎌倉幕府が滅亡しました。
 これにて鎌倉時代の記述を終えるべきかもしれませんが、鎌倉幕府にはまだ他にも出先機関があります。
・博多(福岡県福岡市)に設置された鎮西探題: 5月25日に滅亡
・長門(山口県下関市)に設置された長門探題: 5月26日に降伏
 これら鎮西探題の滅亡と長門探題の降伏を取り上げないことには、鎌倉時代の稿を閉じるわけにはいきません。ここから3ヶ月ほど遡ることになりますが、九州の動向を見ていきましょう。
 閏2月11日。後醍醐天皇が各地に反乱を呼びかける中、伊予国の土居通増(どいみちます:?~1336)と得能通綱(とくのうみちつな:?~1337)が長門探題に対して反乱を起こしました。長門探題の金沢時直(かねさわときなお:?~1333)がこれを鎮圧しようと戦いますが、敗北してしまいます。
 続いて3月になると、九州の御家人たちが鎮西探題への反乱を計画します。
・菊池武時(きくちたけとき:1292~1333)
・少弍貞経(しょうにさだつね:1272~1336)
・大友貞宗(おおともさだむね:?~1334)
の3名です。
 3人は共に反乱計画を立てていましたが、たまたま鎮西探題の赤橋英時(あかはしひでとき:?~1333)から、菊池武時にだけ
「探題まで出頭せよ」
との連絡が来ました。
 菊池はてっきり計画が露見したものと覚悟して
「今立ち上がるしかない。共に鎮西探題を討とう」
と少弍・大友に呼びかけますが、大友はどっちつかずの返事しかしません。少弍に至っては、この頃六波羅探題が連戦連勝との知らせを聞いていたため、盟約を破って鎮西探題側につこうと画策します。
 こうして、せっかく三者合同でやるはずの倒幕運動が、菊池単独のものとなってしまいました。

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