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30年日本史00530【鎌倉初期】大物浦の遭難

 文治元(1185)年11月5日夜、義経一行は大物浦から出航しました。義経が都から連れてきていた女房たち十余人は、舟に乗せてもらえず、住吉浦(大阪市住吉区)の浜辺に置き去りにされて泣き伏していたといいます。当初は連れていこうと思っていたのでしょうが、思わぬ敵の追撃に余裕を失くし、放置することとなったのでしょう。哀れんだ住吉神社の神官たちがこの女房たちを都へ送り届けました。
 さて、この義経の乗る舟が翌11月6日にとんでもない暴風雨に遭うのです。
 能の演目「船弁慶」は、この大物浦の遭難を題材にした物語です。波がだんだん高くなってきたかと思うと、突然海上に平知盛の亡霊が現れ、
「義経を海に沈めん」
と言って激しい舞を舞い始めます。義経は刀を抜いて亡霊に斬り付けますが、弁慶は
「刀では敵わないでしょう」
と言って、数珠を繰って経文を唱えます。厳しい攻めぎあいの末に、弁慶の祈りが功を奏して知盛の霊は遠ざかっていきます。
 この「船弁慶」は非常に人気のある演目で、能から派生して歌舞伎や落語にもなっています。
 さて、能では弁慶の活躍によって知盛の亡霊は退散していきますが、史実では義経一行が乗った船は難破し、一行は離散してしまいます。義経は叔父・行家や側近の伊勢三郎義盛ともはぐれてしまい、武蔵坊弁慶、堀景光、静御前ら僅か数名と陸に流れ着きました。
 義経たちは吉野山(奈良県吉野町)の吉水神社に5日間身を潜めますが、そこも追っ手に悟られてしまい、比叡山へ逃れることとなります。
 比叡山は弁慶が長年育った場所であり、地の利があります。しかし女人禁制の地ですから、静を連れては行けません。11月12日、義経は静と涙の別れを迎えます。
 義経は静に「これを形見と思ってほしい」と言って鏡を渡しますが、静は
「見るとても 嬉しくもなし 増鏡 恋しき人の 影を止めねば」
(恋しい人の顔が映らない鏡を見ても嬉しくない)
と詠みました。これが義経と静の今生の別れとなりました。
 義経一行と別れた静は、都を目指して歩き始めますが、従者に裏切られて荷物を奪われ、一人さまよっていたところを蔵王堂の僧たちに捕らえられます。その後、鎌倉に連行されて頼朝の詮議を受けることとなるのです。

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