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30年日本史(毎日投稿)

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2022年元日から始めた連載。「人間って面白いな」と思えるような、登場人物の個性に着目した日本史講座を目指しています。受験対策になるかどうかは微妙ですが、旅行がより楽しくなるはず…
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2022年5月の記事一覧

30年日本史00151【古墳】磐井の乱

30年日本史00151【古墳】磐井の乱

 穂積押山と大伴金村の主張により、任那4県が百済に割譲されたわけですが、この処置をめぐって、「押山と金村は百済から賄賂をもらっている」との流言が出回りました。また、任那諸国はこの処置に大いに不満を持ち、百済に侵入して略奪の限りを尽くしました。
 この略奪を止めるため、倭国は物部至々(もののべのしし)を渡海させました。ところが、任那は物部至々たちを襲撃します。物部至々は衣服を剥ぎ取られ、命からがら裸

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30年日本史00150【古墳】26代継体天皇

30年日本史00150【古墳】26代継体天皇

 継体天皇元(507)年1月6日。大伴金村は越前国に住んでいた男大迹王を呼びに行きますが、「私は天皇の器ではない」と断られてしまいます。再三説得することで、2月4日、ようやく男大迹王は求めに応じ、即位しました。継体天皇です。
 しかし、継体天皇は即位した後、しばらく大和(奈良県)に入りませんでした。河内国樟葉宮(大阪府枚方市)に居座って政務をとったのです。
 日本書紀はその理由を明らかにしていませ

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30年日本史00149【古墳】男大迹王の謎

30年日本史00149【古墳】男大迹王の謎

 武烈天皇8(507)年12月8日。武烈天皇が子を持たないまま崩御したため、ここで皇位が途絶えてしまいます。
 そこで継体天皇元(507)年1月4日、大連の大伴金村が
「越前国高向(福井県坂井市)に男大迹王(おおとのきみ:後の継体天皇:450~531)が住んでおられる。賢明な方と聞き及んでいる。男大迹王を天皇に迎えよう」
と提案します。
 男大迹王とは応神天皇の5世孫です。つまり、武烈天皇から見る

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30年日本史00148【古墳】古墳時代概観

30年日本史00148【古墳】古墳時代概観

 今回から古墳時代に入ります。考古学的な意味での古墳時代は3世紀から7世紀までを指すのですが、本稿で扱うのは第26代継体天皇即位(507年)から第32代崇峻天皇崩御(592年)までです。この時代の天皇は以下のとおりです。
・第26代継体(けいたい): 在位507~531
・第27代安閑(あんかん): 在位531~535
・第28代宣化(せんか): 在位535~539
・第29代欽明(きんめい): 

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30年日本史00147【人代後期】人代後期総括

30年日本史00147【人代後期】人代後期総括

 第15代応神天皇から第25代武烈天皇までの時代を見てきました。古墳で有名な仁徳天皇らが登場する時代ですが、まだまだ神話的な記述が多く、間違いなく史実だと言える事項が少ない時代ですね。
 さて、この時代は、皇位の継承が難しくなってきた時代でした。
 初代神武天皇から16代仁徳天皇までは、仲哀天皇を除いて全て父子継承でした。ところが、仁徳天皇の子である履中・反正・允恭の3人が連続して即位し、さらに允

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30年日本史00146【人代後期】宋書倭国伝と倭の五王*

30年日本史00146【人代後期】宋書倭国伝と倭の五王*

 さて、ここで一旦記紀を離れて中国の歴史書に目を移してみましょう。
 宋書倭国伝に、5世紀の倭国に関する記述があります。どんな内容かというと……。
・421年に倭国王の讃が朝貢してきた。
・讃の死後、弟の珍が即位した。珍の朝貢に対し「安東将軍・倭国王」の称号を与えた。
・443年。倭国王の済が朝貢してきた。「安東将軍・倭国王」の称号を与えた。
・済の死後、子の興が即位した。興の朝貢に対し「安東将軍

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30年日本史00145【人代後期】25代武烈天皇

30年日本史00145【人代後期】25代武烈天皇

 武烈天皇元(499)年12月。小泊瀬皇子が即位しました。武烈天皇です。
 日本書紀の年号を信じるならば、10歳で即位したことになります。しかし、10歳で前述したような女性をめぐるトラブルになるとは考えにくいので、実際の年齢はだいぶ違ったことでしょう。
 武烈天皇は即位後すぐに、大伴金村を大連(おおむらじ)に就任させました。連から大連になるのがどの程度の出世なのか、ピンと来ませんが、政敵を葬ること

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30年日本史00144【人代後期】24代仁賢天皇

30年日本史00144【人代後期】24代仁賢天皇

 仁賢天皇元(488)年1月5日。兄の億計王が即位しました。仁賢天皇です。仁と賢とは、実にすばらしい名ですね。
 仁賢天皇は、故・雄略天皇の娘である春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)を娶りました。あの父の仇である雄略天皇の血筋から妻を娶ったのです。きっと役人の中には、雄略天皇の代から仕える者たちが相当いたはずであり、彼らを取り込もうとしたのかもしれません。
 そして仁賢天皇と春日山田皇女の間

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30年日本史00143【人代後期】顕宗天皇の遺恨

30年日本史00143【人代後期】顕宗天皇の遺恨

 さて、顕宗天皇にはどうも大人げないエピソードが残っています。
 億計王・弘計王は、父を殺されて播磨国に逃亡する際、猪甘(いかい)という老人に食糧を奪われたことがありました。泣き面に蜂という感じですね。
 顕宗天皇は、この猪甘を見つけ出して斬殺し、さらにその一族の者たちの膝の筋を断ち切ったというのです。そのせいで、その一族の子孫たちは大和へ来るとき、必ず足を引きずるのだといいます。
 まあ、後天性

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30年日本史00142【人代後期】23代顕宗天皇

30年日本史00142【人代後期】23代顕宗天皇

 清寧天皇が崩御し、皇統が途絶えてしまうという大事件が起きたわけですが、ここで皇室を救う人物が現れます。
 播磨国司に就任した伊予来目部小楯(いよのくめべおだて)という人物がいました。「伊予」という苗字ですから愛媛県出身なのでしょう。彼は、播磨国縮見(しじみ:兵庫県三木市)に住む忍海部細目という人物の、新築祝いに訪れました。忍海部細目という人物は初登場ではないのですが、ご記憶の方はいらっしゃるでし

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30年日本史00141【人代後期】22代清寧天皇

30年日本史00141【人代後期】22代清寧天皇

 さて、雄略天皇は雄略天皇23(479)年8月7日に崩御しました。自然の流れに従うならば、雄略天皇の子で、皇太子であった白髪皇子(しらがのみこ)が即位するべきところです。白髪皇子は生まれながら白髪であったからこの名が付いたと記録されています。アルビノだったとの説もあります。
 しかしそれに待ったをかけたのが、側室の吉備稚媛でした。
 吉備稚媛は、子の星川皇子(ほしかわのみこ)に
「白髪皇子の命を奪

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30年日本史00140【人代後期】吉備一族の全滅

30年日本史00140【人代後期】吉備一族の全滅

 雄略天皇7(463)年8月。この恐ろしい雄略天皇に対し、反乱を企てた者がいました。吉備前津屋(きびのさきつや)という男です。その名のとおり、吉備国(岡山県)を領地とする豪族でした。
 吉備前津屋には、吉備虚空(きびのおおぞら)という舎人がいました。虚空が前津屋の家に行くと、前津屋が、2羽の鶏を戦わせているところでした。
 しかし、ただの闘鶏ではありません。前津屋は、小さい鶏を「天皇の鶏」と呼んで

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30年日本史00139【人代後期】一言主神

30年日本史00139【人代後期】一言主神

 さらに、雄略天皇のエピソードとしては一言主神(ひとことぬしのかみ)の話を飛ばすわけにはいきません。
 雄略天皇4(460)年2月。雄略天皇が葛城山(奈良県御所市)に登った際、天皇の行列と全く同じ装束を着た行列がいました。これを見た雄略天皇は激怒します。豪華な館を見つけただけで激怒した雄略天皇ですから、豪華な行列を見るとなおのこと頭に来たのでしょう。
 雄略天皇は弓矢を構え、照準を合わせながら、

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30年日本史00138【人代後期】21代雄略天皇

30年日本史00138【人代後期】21代雄略天皇

 さて、安康天皇3(456)年11月13日に大泊瀬皇子が即位しました。雄略天皇です。皇后は幡梭皇女です。あの安康天皇が嫁探しをしてくれた結果、見つかった相手ですね。
 雄略天皇については様々なエピソードがあります。その多くが雄略天皇の気性の激しさを物語るものです。
 例えば雄略天皇が日下(大阪府東大阪市)に行った際、堅魚木(かつおぎ)を屋根に乗せている家を見つけました。堅魚木とは神社建築や天皇の宮

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