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映画『ノースマン 導かれし復讐者』の感想など(ネタバレあり)


2023年1月29日、『ノースマン 導かれし復讐者』 を観て来ました。

この記事ではネタバレを含む感想を書いていますが、あくまで一人の北欧&ヴァイキング好きな人間の主観であることをご理解ください。

TOHOシネマズ二条にて


父王を謀殺し、母を連れ去った叔父に復讐を誓った少年アムレート。
成長して東欧を荒らすヴァイキング戦士となった彼は運命に導かれ、アイスランドで農場を営む叔父に復讐を果たすべく、奴隷のふりをして敵地へ乗り込む――。


シェイクスピアが 『ハムレット』 の題材にしたというスカンディナヴィアのアムレート伝説がこの物語でも下敷きになっているようです。
アムレートについての物語はサクソ・グラマティクスによって13世紀に編纂された『デンマーク人の事績(ゲスタ ダノールム)』 に収録され、またアイスランドのサガにも一部が残されています。
とはいえ、この映画の主人公は父を叔父に殺されたこと以外、『デンマーク人の事績』のアムレートとは全く異なります。
主な舞台もアイスランドなので、アイスランドのファミリーサガの方が共通点が多いです。


前置きはこのくらいにして、映画の感想を。

これぞ真のヴァイキング復讐譚。
アイスランドのサガを映像化したらこのようになるんだろうな、と納得しました。
復讐に到るまでの凄絶な場面の数々も見所ですが、グートルン王妃(主人公の母)がカード織(穴をあけたカードに数本の糸を通し、カードを回しながら模様を織る伝統的な技法で、衣服の縁取り等に使われました)をしている日常風景、スラヴ女性の美しい刺繍が施されたリネンの衣服も見ものでした。
白樺の森のオルガがカード織でつくられたバンドをベルトにしていたのが印象に残っています。
そしてもちろん、序盤の襲撃者たちの鎧帷子やヴァイキングらしい羊毛(ウール)の衣装も。
私は美大出身なので、ヴァイキング美術は見逃せませんでした。王妃の部屋にあった綴れ織りや敷物の模様、小物類のデザインなどにも惹かれましたね。

冬の天気の悪さ(いきなり吹雪!)や室内の薄暗さとかもリアリティ(といっても当時はこんな感じだっただろうとの推測にすぎませんが)があってよかったです。

儀式で生贄の血を器に入れ、〈生贄の枝〉を使ってふりかける場面なども「ホーコン善王のサガ」等に書かれている通りで、重要な場面で古ノルド語を織り交ぜたり、ルーン文字を象徴的に使ったり、オーディンやヴァルキュリア(ヴァルキリー)の存在を思わせる描写も秀逸。
荒々しいベルセルク(狂戦士)、船葬(アイスランドで行われていたかどうか私は知らないのですが *1)などもヴァイキングらしさ満載でした。

とにかくクライマックスがアイスランドサガそのもので、これはもうヴァイキング好きなら主人公の選択と行動に「やはりそうでなければね……」と共感すること間違いないです。


*1 『ギスリのサガ』(渡辺洋美訳、プレスポート)89ページに船を棺にした埋葬について書かれていました。ヴァイキング時代のスカンディナヴィアでは一般的ですが、アイスランドでも2例見つかっているそうです。


~~~~~~~~~~ ここからネタバレあります ~~~~~~~~~~


Twitter で交流のあるヴァイキング好きの方も言ってらしたのですが、父王を謀殺した叔父(父の異母弟)がせっかく王国を自分のものにしたにもかかわらず、ノルウェーのハーラル王(ハラルド美髪王ですね)に攻め込まれて国を奪われ、アイスランドに逃げて農場を営んでいる……というところがサガらしいな、と思いました。
よくある英雄譚ならば、主人公が復讐に来るまで、叔父が乗っ取った王国をそのまま支配していますよね。
しかし、この物語ではそうではなく、叔父もわりと普通の人間で、もはや王ではなくなったけれども移住先の慣れない土地で生きていくために耕地をつくり、羊を飼い、奴隷を使役して農場を経営している。
ただの敵役ではなく、人間らしさを持った人物として描かれていました。
人としての逞しさを感じましたね。
兄王やアムレートがオーディンを信仰していたのと異なり、叔父は豊穣神フレイを信仰していたのも、農場主となった彼を象徴しているように思いました。


次に、成長したアムレートがヴァイキング戦士として襲撃するスラヴ族の村。
最初の脚本では、舞台は英国の予定だったそうです。しかしながら、英国でのヴァイキングの襲撃と掠奪はほかの作品でも数多く描かれているということで、東欧のウクライナに変更したとか。
町の名称をキエフではなくキーウとしたのは、現在の状況を慮ってのことでしょうか。
コンスタンティノープルはミクラガルズ(ノルドの人々はそう呼んでいたようです。ノルド語で「大きい町」の意味)にしてほしかったですけどね。
そのスラヴの砦で預言者と出会い、己の運命と使命とを思い出したアムレートは仇敵の叔父フィヨルニルがアイスランドにいることを知るのです。
彼は奴隷を装ってアイスランド行きの船に乗り、白樺の森のオルガと知り合い、彼女と行動をともにします。
奴隷として叔父の農場に入ることに成功したアムレートは仕事の合間に機会を窺い、生ける死者ドラウグルを斃して復讐に相応しい最高の剣を手に入れるのですが、そのあたりは多くの英雄伝説と似ていますね。


そして、物語のメインテーマでもある主人公アムレートの「復讐」について。
彼が最初に行なった復讐は、夜更けに叔父の農場の戦士たちを襲う、いわゆる「闇討ち」のようなもので、死体の見せ方をキリスト教徒による犯行や霊的な存在の仕業に思わせるようなやり口でした。
そして二度目は負傷して寝台に寝ていた叔父の長男を殺害。
このような復讐の手口がなかったわけではなく、サガにも結構出てきますが、法的にはタブーとされ、非常に卑劣なやり方として非難されます。
とりわけ寝ている相手を手にかけるのは最悪です。
余談ながら、海外ドラマ『ラスト・キングダム』でも、エセルヴォルドがラグナルをこの方法で殺害していましたが、エセルヴォルドはラグナルを非常に恐れていた臆病者だったので、そのように描かれたのでしょう。
もっとも、エセルヴォルドはヴァイキングではなくサクソン人ですが(いや、サクソンでも卑劣な暗殺はタブーだと思う)。

話は戻って、母に再会したことで己の正体を仇敵である叔父に知られたアムレートは、恋人(もはや妻?)であるオルガが自分の子を身籠っていることを知り、二人で親戚のいるオークニー諸島へ逃れようとします。
この時のアムレートの心情は、母が父の殺害を叔父に依頼したという事実を知ったことと、母から聞かされた父の人格が自分の信じていた父とは全く異なっていることの二点に対し衝撃を受け、やりきれなさが募っていたのではないかと推察。復讐を果たすことよりも愛する人との未来を考えたい……そんな思いが強くなっていたのかもしれません。
オルガもオークニー諸島へ行くことを望み、二人はオークニー行きの船に乗り込みますが、アムレートの脳裡にユグドラシルに吊られた己の血族のビジョンが浮かび、オルガとの間に双子が生まれることを暗示。
そこで彼はやはり復讐を遂げることを選択するのです。
オルガを船に残し、自らは農場に戻るため、海に飛び込むアムレート。
迷いを断ち、すべてを吹っ切ったその表情は、なんと清々しいことか――。

ヴァイキングものでなければ、中世の英雄物語であっても現代風の解釈で「主人公は復讐という悲劇しか生まない行いを止め、未来に希望を持って生きることを選択しました。めでたし、めでたし」とハッピーエンドで終わったかもしれません。

しかし、ヴァイキングの世界ではそのようにはいかないのです。
ハムレットの有名な台詞「生きるべきか、死ぬべきか」ではなく、ただ血で血を洗う復讐あるのみ。
オークニーで平和を得たとしても、叔父が生きている限り血讐(フェーデ)は続き、息子を殺した甥に報復すべく地の果てまでも追ってくるでしょう。
実際、サガにはそういう話が沢山あります。アムレートと家族に決して平穏は訪れないのです。
復讐の連鎖を断ち切るため、アムレートはあらためて叔父を斃す決断を下したともいえるのではないでしょうか。

最後の復讐では、これまでのように霊や異教の呪いを思わせるやり方ではなく、時と場所をあらかじめ決めておく「決闘」という最も正当な方法が採られます。
これはアムレートにとって復讐がもはや「目的」ではなく、妻子を護るための「手段」に変わったからだと思われます。「手段」として復讐を果たした後、たとえ自分は死しても妻子が無事であり、その生命が脅かされないこと。そして自身の血脈は彼らを通じて受け継がれる――それが彼の「望み」であり、「目的」になった、と。

決闘の場所に指定されたヘルの門(アイスランドの活火山、ヘクラ山の噴火口あたり)で凄絶な戦いを繰り広げ、アムレートはついに叔父の首級を討ち取りますが、自身も致命傷を負い、ヴァルキュリアに導かれてヴァルハラへ向かうイメージが描かれました。

叔父とその家族(実母と幼い異父弟を含む)を皆殺しにし、報復の火種を断ったことは、オークニーに移った妻子に怨恨の類が及ばないことを示しているので、未来に希望は残りました。
ラストシーンで浮かぶ、二人の赤児(双子)を抱いたオルガが「私たちは安全よ」とメッセージを送るビジョンが、アムレートの望みが叶う予兆となる。
どのように死ぬか。どのように生きたか。
死にざま、あるいは生きざまを己が選択すること。
そこにヴァイキングの死生観があるように思います。


最後に、作品のサブタイトル Conquer your fate. (運命に打ち勝て)について思ったこと。
主人公の運命(父王の復讐)は定められたものでしたが、物語の結末はそれを成し遂げる=運命を受け容れる、もしくは成し遂げなければならないことをやめる=運命を受け容れない、のどちらでもありませんでした。
強いて言うなら、主人公はただ復讐を果たすのみではなく、それによって護られるもの(妻子や己の血脈)のために死ぬこと――免れないであろう「死」を逃れるのではなく、死して永遠に生きる(血筋を残す)ことを選択したことで運命に打ち勝ったと言えるのではないかと。


とにかく、ヴァイキング時代を舞台にした映像作品では満足度が非常に高い作品でした。
また、ヴァイキングの文化や北欧神話の世界観から当時を生きた人々の運命に対する見方や死生観などをあらためて考えてみるきっかけになりました。


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