ivory(小説)
ファミレスのどこかぬるっとしたテカテカのグランドメニューと睨めっこしている目の前の男を、直感で「情けない」と池田紗奈(いけださな)は思った。
中高生が来るようなレストランである。しかし、食べ物に強いこだわりがあるから男に愛想を尽かしそうになっている、というわけではない。
絵に描いたような優柔不断っぷりが腹立たしいのだ。
目の前の男、笹田拓実(ささだたくみ)と紗奈は、早い話がセフレで、普段は夜にしか会わない。
紗奈は拓実との行為を割と気に入っていて、だからこそ都合のいい関係が続いているわけだが、今日は暇だったので気まぐれで昼食に誘ってみたのだ。
「失敗した」
紗奈は小声で呟いたが、メニューがバリアの役割を果たし、その声は拓実には届かなかった。
夜会う時とまるで別人だ。少し意地悪をしたり、猫みたいに甘えたり、軽快なピロートークを放つ男が、今目の前の男と同一人物だと信じたくなかった。
「ゆっくり選んでいいからね」
目を三日月のように細めて紗奈は言った。拓実は「うん、ありがと」と何の疑いも持たずに言う。
この男と昼間会うのはよそう。紗奈は心に強く誓った。
🍝🍝🍝
「ちょっとトイレ行ってくるから、決まったらわたしの分も頼んでおいて」
紗奈はそう言って席を立った。トイレから帰っても拓実がメニューを決めあぐねていたら、その場で帰ろうと思った。
髪をすこしだけ直し、まつ毛を引っ張った。鏡に映る自分の顔は綺麗だったけど、楽しそうには見えなかった。
トイレから出ると、声をかけられた。
「落としましたよ」
差し出された手には、小さな紙パックの野菜ジュースが握られていた。紗奈はぎょっとして手の主の顔を見上げた。
男だった。見るからにチャラチャラしている。こういうのを「クソマッシュ」と呼ぶんだっけ。黒髪マッシュのオシャレ男。大きめな柄のシャツからはいい香りがした。
そして当然、紗奈は野菜ジュースなど落としていない。ナンパの古い手口だ。
「落としてないです」
ここファミレスだぞ、と呆れに似た感情が湧き上がってきた。どうしてわたしの周りの男ってこんな奴ばっかなんだろう。
「じゃあ、もらって」
手を握って野菜ジュースを渡された。いらない。いらないです。紗奈はどうにか押し返そうとしたが、受け取るだけで男が諦めてくれるならと力を緩めた。
「紗奈ちゃん、何してんの」
その時、拓実がこちらに気づいて声をかけてきた。「誰、その人」
こいつ、いっちょ前に妬いてんのかと紗奈は可笑しくなった。セフレのくせに。
「メニュー決まった?」
どうでもいいことだったが、変に余裕があったので訊いてみた。
「ううん、明太子パスタとバジルのピザで悩んでて…」
拓実がそう口籠ったのを見て「帰ろう」と紗奈は決意した。
「拓実くん、この人ね、わたしの彼氏。今日一日つきあってくれてありがとう」
デタラメを言って、紗奈はクソマッシュの手を引き店を出た。拓実が「おい」と言うのを背中で聞いたが、その声がどうにも情けなくて、昼間のセフレの頼りなさに幻想が壊れるばかりだった。
🍎🍎🍎
クソマッシュ、もとい中山倫吾(なかやまりんご)は大学生だった。3年と聞いて「3つ下か」と紗奈は瞬時に計算した。
「ありがと、もう大丈夫だから」
紗奈はそう言って、倫吾と強引に別れようとした。名前まで聞くつもりじゃなかったのに、さっき拓実に呼ばれたせいでクソマッシュに自分の名前を聞かれたことを思い出し、それは不公平だという感情になった。だから名前だけはなんとか聞き出したのだけど、それがナンパ男の倫吾には「脈アリ」サインに思われたようだ。
「紗奈さん、待って。野菜ジュース」
こいつ、いつまでこのネタ引っ張るんだ。紗奈はその愚直さというか、変なベクトルに向いている林檎の意地がおかしくなり、つい笑ってしまった。
「はい、笑ったね」
やられた。こういう男って、女を笑わせたら勝ちだと思ってる。実際、笑っちゃうと警戒心が解けちゃうのは事実なんだけど。
仕方がないので、今日1日だけは倫吾に付き合うことにした。
🎥🎥🎥
映画を見ることになってしまった。倫吾は歳下とは思えぬ落ち着きを持っており、紗奈の歩幅に合わせて歩いた。
「俺、留年するかも」
倫吾が笑っていいのかわからない冗談を言うので「授業さえ出てテスト勉強サボらなかったら単位なんて取れるでしょ!」と小声で叱りつけた。
「大学生にはそれが難しいんよ」
映画館には紗奈と倫吾以外、誰もいなかった。平日の昼間だからなのか、この映画が相当人気がないのか。
まるで、リビングのソファで映画を見ているみたいだ。
アクション映画だった。後半は爆発だらけで、2人しかいない場内に音がよく響いたせいか、紗奈はあまり内容に集中できなかった。
ちらりと倫吾の方に目をやると、真剣にスクリーンを見ていた。思わずどきりとして、ふたたび前を向く。その時、指先に感触を覚えた。
…暗闇に乗じて、こいつ。
こいつが所詮ナンパ男のクソマッシュだったことを思い出し、紗奈はげんなりした。
もう一度、倫吾の顔を見る。倫吾は依然としてスクリーンを真剣に観ていた。その演技がなんだか可愛くて、ため息が出た。
紗奈は倫吾の指先を握り返した。
👔👔👔
「俺さ、新しい服が欲しいんだけど。付き合ってくれない?」
倫吾に言われるがまま、UNIQLOに入っていく。
「ユニクロでいいの?」
紗奈は尋ねた。いま倫吾が着ている柄の大きなシャツは、いくらするのか検討もつかなかったが、少なくともユニクロではない気がした。
「今日の記念にさ、紗奈さんに選んで欲しくて。だから、なんでもいーの」
倫吾は笑った。
同じようなシャツがたくさん並んでいるコーナーで、とにかく持てるだけ手に取って、片っ端からハンガーごと倫吾の体にあわせてみる。
「俺、この色好きだな」
倫吾がそう言ったのは、アイボリー色のシャツだった。
「このちょっと黄ばんだ感じがいい。汚れてもわかんなそう」
どこまで本気なんだろう。「これ、黄ばんでるんじゃなくてアイボリーって言うんだよ」と紗奈は教えた。
「どういう意味?」
「象牙、だったかな」
「ぞうげ、ぞうげ」そう繰り返しながら、倫吾はシャツを取って試着室に入っていった。
🐘🐘🐘
倫吾が試着している間、紗奈は拓実とのことを思い出していた。
拓実とは、マッチングアプリで出会った。ちゃんとした恋活アプリだ。しかし、何を間違えたのか、都合の良い関係になってしまった。
夜に会ったのがいけなかったのか。夜が合いすぎたのがいけなかったのか。
大人しいけど、真面目そうで、顔も悪くない拓実を紗奈は好きになりかけていた。しかし、夜にしか会わない関係性のせいで、ついに「そういう関係」と割り切るようになった。
「紗奈さん、どう?」
カーテンが開き、倫吾が顔を出した。思わず我にかえる。
「すごく似合ってる」
紗奈は、心からの言葉を口にした。
🌊🌊🌊
「今日楽しかった。また会えたら嬉しいんだけど」
買い物が終わり、辺りは夕暮れに包まれていた。紗奈は意外に思った。てっきり晩御飯も一緒に食べて、明日の朝まで一緒にいるものだと思っていたから。
「えっ!」
倫吾は顔を真っ赤にして否定した。
「そんなつもりないよ。俺らまだ会って初日じゃん」
なんで、と紗奈は思う。この男は、なんでこんなに純粋なんだろう。真っ白な純粋さじゃない。一見すると汚れているようにも見える。しかし、よく見ると暖かみのある色合いに覆われている。この男の纏う雰囲気は、象牙の白によく似ている。
「てっきり今日は倫吾くんに抱かれるのかと思っちゃった」
冗談めかして紗奈が言うと、倫吾はしどろもどろになって表情をぐちゃぐちゃにした。
「紗奈さん、馬鹿なこと言わないで。そりゃ、ナンパしたのは悪かったよ。でも純粋にいいと思っただけだからさ」
たぶんわたしはこの子が好きになってしまった。紗奈は真っ赤な顔を見てそう思った。これが演技でもいい。ずっと騙し続けてくれるなら。
「俺、たぶん紗奈さんのことめっちゃ好きになっちゃった」
倫吾が思ったより冷静に言った。最近の若い子って素直だよな、と紗奈は感心する。つい最近まで自分も21歳だったけど、やはり社会人と学生には確かな隔たりを感じる。
夕日が彼のアイボリー色のシャツを染めていく。より暖かな色に。ただのチャラチャラしたクソマッシュだと思っていたのに。さっき買ったばかりのシャツは、すっかり倫吾に馴染んでいた。
「じゃあ、また遊んでもらおうかな」
そこで初めて連絡先を交換した。【リンゴ】という登録名がかわいくて、思わず紗奈はクスッと笑った。
「きょう、服買ってもらっちゃったし、何かお礼させて」
そう言われ、紗奈は一瞬だけ考えて答えた。
「…じゃあ、昼間の野菜ジュースでももらおうかな」
(おわり)
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