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大怪獣のあとしまつを叩きまくる世論に対して思うこと(三木聡=デュシャン理論)

一言でまとめると「社会が寛容さを失っている」と思います。

あの映画を観て期待外れになった人がいるのは分かりますが
それでも
「1900円と2時間を投じて結果がこれかよ」
という意見を見ると、
ハズレることも醍醐味である映画を楽しめないくらいに
余裕が無い人達がいるのだな、
とちょっと寂しい気持ちになります。

人間は知恵をつけることで、本能以外の「余裕」を手に入れて、
だからこそ高度な文明や文化を築いてこられた生き物です。

そのように余裕がなくなる人が増えるということは、
社会全体が後退している現れの一つかもしれません。

●映画とはギャンブルである:

そもそも、映画は1900円と2時間を投じて挑む賭け事です。
大勝ちする(自分の好みに合う)ことがあれば
大負けする(自分の好みに合わない)こともあるでしょう。

競馬はパドックで出走馬のコンディションを見て判断するように
映画はトレイラーでどんな内容か見極める必要があるのです。

映画がつまらなかったらそれは
その予想勝負に自分が負けただけです。
映画の悪口を怒りに任せてTwitterに書くのは
馬に向かって「お前が速く走らないから負けた!」
と癇癪を起こしている人と同じです。

酷評されていることを知ってなお観に行くような人達は
ハルウララの馬券を買っているようなものですね。
観てもいないのに酷評祭りに参加して騒いでいる人達は
報道されるハルウララを馬鹿にして喜んでいるようなものです。

あとは予想とか、勝った負けたとか、そういうのは二の次で、
ただハルウララという馬が好きで競馬場に行く人もいるでしょう。
それもまた競馬という遊びの楽しみ方の一つなので何の問題ありません。
ただ、このnoteでは競馬の勝負を楽しむ人、
つまり俳優よりも映画全体を優先する人に話を絞ります。

大怪獣のあとしまつの場合は
あの予告編を見て
ナレーションにそこはかとなく漂うオフビートな感じや
監督の名前や、出演者の顔ぶれから汲み取るだけの
リテラシーが必要だったというだけです。
あえて「予想が難しい馬だった」とは書いておきましょう。

しかし現に私は公開前から作品のテイストが大体予測できたし
公開初日に鑑賞して「大体予想通り」でした。
あの予告編を見て
「記憶にございませんみたいなコメディっぽいノリだ」
と気づけるかどうかは自分の責任なのです。

否定派の意見の中には
作品を擁護するようなポージングで
「下ネタが好きな人は好きなんじゃないでしょうか」
という当て擦りのような指摘が散見されましたが
そんな単純な話ではありません。

本作を良いと思った私でさえ
本作の下ネタはつまらなかったと感じました。
でも本作の価値はそういう次元の話ではないのです。

●映画とはアートでもある:

あれだけアートに全振りした作品を
ここまで大衆的な形で売り出して見せた姿勢を
私は高く評価しています。

皆さんはアートという言葉の意味を正しくご存知ですか。
美しさや気持ち良さはアートの定義ではありません。

art:
the expression or application of human creative skill and imagination, typically in a visual form such as painting or sculpture, producing works to be appreciated primarily for their beauty or emotional power

アート:
人間の創造的な技巧または思念を表現または行動に起こしたもの。典型的には絵画や彫刻など視覚的な形をとり、それらは作り手の美意識や感情の力の表出として理解される。

つまり「私はこう考える」というものを表現したのがアートです。
それは必ずしもあなたの好みや意見と一致するとは限りません。
ましてや業界やジャンルのお約束を守ってくれるとは限りませんし
あなたがタブーだと思っているものを平気で犯す可能性だってあります。

私は件の映画が、大衆娯楽(エンタメ)として
優れている(大衆受けする)と思っているわけではありません。
ただし誰もやったことがないことを実現したからこそ
そこにアートとしての価値が生まれたと私は考えています。

同じようなテーマや設定を考えた人は過去にいたかもしれません。
怪獣の死体処理にまつわる作品は過去にもありました。
しかしあそこまで大規模に形にできた人はいませんでした。
特撮のために優秀なクルーを集結して
さらにはジャニーズまで引っ張り出して大したものです。

それらの努力や才能を全て注ぎ込んで、
それで2時間引っ張った上での、あの結末。
この壮大すぎる無駄づかい。
なんたる不条理。
しかしこの不条理こそが三木監督の持ち味です。

それが自分の好みに合うか、みたいな話ではないのです。
ましてや好みに合わなかったらダメ映画という帰結にもなりません。

もし「あんなものをアートだなんて呼べるか」と怒っている人がいたら
その人は「アート」がなんたるかを理解していません。
もしくはアートの様式が19世紀で止まっている不勉強な人でしょう。

しかし現代の日本の世論はあんな感じでした。
一部から批判の声が吹き出したと思ったら
もともと興味がなかった層まで参加しての
よってたかっての大批判のオンパレード。
日本のエンタメ文化の未熟さを感じずにはいられませんでした。

●現代のデュシャンかもね?

ただし、ここまで強い反発を招いたのは
ある意味で現代アートとして正しい姿なのかもしれません。

たとえるなら1917年にマルセル・デュシャンが便器にサインだけして
それを『泉』という作品だと主張して展覧会に出品した感覚に近いかと。

https://ja.wikipedia.org/wiki/泉_(デュシャン)

なかでも、普通の男子用小便器に「リチャード・マット (R. Mutt[10])」という署名をし、『』というタイトルを付けた作品(1917年制作[11])は、物議をかもした。この作品は、デュシャン自身が展示委員をしていたニューヨーク・アンデパンダン展[12]に匿名で出品されたものの、委員会の議論の末、展示されることはなかった。後年、デュシャンは「展示が拒否されたのではなく、作品は展覧会の間じゅう仕切り壁の背後に置かれていて、自分も作品がどこにあるか知らなかった」とインタビューに応えている[13]。デュシャンは自分が出品者であることを伏せたまま、展示委員の立場から抗議の評論文を新聞に発表し、委員を辞任した。最終的にはこの作品は紛失した(展示に反対した委員が意図的に破棄したのではないかと考えられている)。
こうしたエピソードはいかにデュシャンが、美術の枠を外そうとし、また拒否反応があったかという点を示しているとも言えるが、抗議文の発表など手際の良さも目立ち、予めこの事がおこるのを予期していたとも考えられ、「みるものが芸術をつくる」というデュシャンの考え方を端的に示した一流のパフォーマンスとも言える。デュシャンはこの後、ほとんど作品を制作発表しなくなる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/マルセル・デュシャン

ここでデュシャンがやっていたのは
小便器を美しいと愛でることではありません。
美術界や世間に騒ぎ(センセーション)を起こすことでした。
その目的は大いに達成したと言えるでしょう。

ただ、これってもう100年以上も前の話なんですよ。

欧米では100年以上前に起きていた拒否反応を
日本はいまだに真面目にやっているということに
落胆の気持ちは正直あります。

いくつかの記事やYouTube動画も観ました。
中には冷静で優れた分析をしているものもありましたが
ほとんどが「怒っている国民感情」に配慮した発言や譲歩が見られ
これには同調圧力というよりは
アートに対して「議論ができない稚拙な日本」を感じました。

この国の大衆は幼稚だ。

あるいは、社会が長びく不況で怒りに満ちて
寛容さを失ってしまっている故なのか。

その点では
特撮映画に造形が深く
本多猪四郎に関する著書も出されている切通理作先生
の感想動画は、全く世間に媚びずに
冷静に作品への考察を述べておられて
見ていて心が晴れる内容でしたのでここに紹介しておきます

デュシャンは『泉』以降、一気に寡作になったそうですが
三木聡監督はこんなことでは落胆せず
(スポンサーが怯んだりせず)
これからも精力的に
挑戦的な作品を発表してくれることを願います。

SNSの声に山田は、「俺、あれ見て笑っちゃいました。うそーん!って(笑)」と吐露した。三木監督は大きくうなずきながら、「良いも悪いもこんなにリアクションがあったのは初めて。皆さんの気持ちを激しく動かせたことに、ちょっとうれしさもありました」と述べた。

https://news.yahoo.co.jp/articles/5d6bbed3b348a58bb36ea6fd0386e93c4d6c1c19

ここらへんの記事を読んでると、
出演者も監督もあまり凹んでないようで何よりです。

補足情報として、土屋太鳳さんのインスタグラムには
本人の真摯な思いが連日綴られていたので紹介しておきます

了。

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