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「自分のため」ということ

自分のことを気遣うことは、慣れない人にとっては難しい。
私は、性格や気質からか、自己肯定感の低さからか、自分のことをないがしろにして、他人の心配ばかりすることが多い。その状態で幼少期から大人になるまで過ごしてしまったためか、自分のことをケアする気が起きたことは少なかった。また、他人に自分のことを相談するにも未だに根源的な謎の抵抗感はぬぐえない。

日々を「周囲の人のため、社会のため?、自分が利他的な存在として認められるため」という精神で日々を過ごしているが、見返りもなかったり、自分ばかりが損な立ち回りになっていたり、知らぬ間に利用されることで、自分が気付かぬうちに消耗していることが多い。それが限界に達すると、ドアスラムのように周囲の人から自分を完全に隔絶し、自分の世界に閉じこもる。
自分の世界に閉じこもった後は、今までさんざん我慢してきた自分の欲望が解放される。最近はやりの「本当にやりたいこと」みたいなことよりは、普段ため込んでいたあらゆる欲望に近いかもしれない。ため込むことも生きていくためにはよくないが、開放し続けるのも人生の崩壊に向かっていくだけである。完全に欲望に忠実になってしまえば、まったく働かず、ひたすら消費を繰り返していく存在になってしまいかねない。そういう存在に向かっているという事実は、私自身が抱いている、「いい人であれ」的な理想からは遠く離れた行為であり、ある程度欲望を開放しきったタイミングで、自分の置かれた現状に深く後悔する。そして、ある意味自罰的な意味も込めて、周囲のため、社会のために身を粉にして働こうとする、あるいは自己肯定感が下がりまくり、動けなくなってしまう。以上がよくあるループである。

しかし、2回も休職に追い込まれたことで、もう一歩自分から離れて自分を見つめなおすことができた。いままで「自分のため」と思ってやっていた、単なる欲望の解放は、本当に自分のためにはならなかったのである。本当に自分のためになることは、自分の高すぎる理想と湧いてくる欲望と向き合えるように、生活を整え、休みを作り、理想のための努力を、一生をかけてバランスよくこなさせていくことに他ならない。そのためには、自分のことを一歩引いてみて考えるのが一番である。

自分自身の悩みや問題を解決していく上で、適切な関係を築けなかった親や恩師、パートナー、上司に変わって、自分こそが理想的なマネージャー、親、パートナーとなろうとすることが、特に「自分のため」に行動するうえでは肝になる。自分のことを自分自身の本名で呼ぶなど、「1人称から外れて考える」ことが重要だ。自分を客観視する、メタ認知をする、というところの真髄は、主観的に言えばここにあるのではないかと思う。自分のことを後回しにしがちな同志には、ぜひ考えてみてもらいたい。

自分の欲望を開放して動く前に、一歩引いて、本当に彼(彼女)のためになるだろうか、欲望を開放しすぎて公開することはないだろうか、などと考えてみる。こうしていくことで、長らく納得できなかった自分の人生、自分自身に対して合格点を上げられるように努力していきたい。

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