見出し画像

「自分がない」のも発達障害の特徴という話

一昨年度大学院に1年間在籍して、ADHDの40代以上の女性から、困難について聞き取り調査をした。

その時、「自分がないんです」という話が何人かの人から出てきた。

それぞれ個性的な趣味もあって、話の内容も興味を惹かれる、充分個性的だと思える人たちでさえもである。

「自分がない」感覚については、「親が自分の天真爛漫さを抑えつけようとした」、「親は私が何をやっても気に入らなかったので、価値観を押しつけてくるようになり、考えるよりも先に理解するようになった」、「こういう友達とは遊ぶな」といった親からの過介入で「自分を殺さなければならなかった」など親との関係の文脈で出てくることもあった。

親との関係の話ではなく、原因は分からないけれど、学生時代に「気がついてみたら自分がなかった」と語る人もいる。

私も、わりと世間に流されるタイプで、好きなものがないので、周りの流行っているモノから自分に合うモノをチョイスしていたという感じだった。服装やインテリアの趣味が「ブレない」友人のことがうらやましかった。そういう自分軸がないのだ。その場その場でチョイスしてしまうので、ASD的こだわりはあっても、世界観がバラバラなのだ。世界観としてまとめ上げられないというか・・・。

話を戻す。「自分がない」問題について、河合俊雄先生は、軽度を含めて広い意味での発達障害に共通する特徴を「主体のなさ」として捉えている。

でも、私としては、調査をしてみて、結構、親が暴力により子どもを支配したり、子どもの言うことを何でも否定したり、子どもを拒絶する、親の価値観をゴリゴリに押しつけるなどの、親の養育態度について多く語られたこともあって、個人の特性として素因があったとしても、そういう親じゃ、子どもに能動的な「主体」は育ちにくいのではないのかなと思う。

親の話になると、調査対象者さんたちはみな、親もADHDだろうとかASDだっただろうとかいう話に至り、毒親というのも、正直発達障害が関係しているのではないのかなとも思えるのだが。

自分がある人は親や先生などの大人の前では自分を殺し、自分がない人も自分というものがないため、ともに「いい子」を演じていた女性が多かった。モチベーションは「愛されたい」なのではないのだろうか。

最近、仮面型・過適応型のASD女性の研究が進んでいると聞いている。

もともとの自分というものがおぼろげで、どういう自分でいて良いのかよくわからなくて、世間のいう「良い子」であれば誰も文句言わない、安心、というのも、過適応の一因なのかなと思う。

とはいっても、自分では良い子を演じているつもりだけど、客観的には、どこか、はみ出しているから、それもどうしたらよいのかわからず、混乱するし、「自分がない」感覚って、つくづく生きづらいよなと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?