ルソー『社会契約論』を読む(12)
今回は、「主権を維持する」ということについて、解説をしていきます。第三篇第十二章以降の議論です。
人民集会
主権者は、立法権以外になんらの力も持ちません。法によってしか行動できないのです。また、法とは、一般意志の真正の行為以外の何ものでもありません。なので、主権者は、人民が集会したとき以外は主権者として行動しえません。この「人民集会」についての議論は、この『社会契約論』のなかでものすごく重要な部分です。私たちの普段の生活と、照らし合わせて考えてみましょう。
ルソーがここで言う「二千年前」とは、ローマ時代のことで、ローマの例を引き合いに出し、「ローマの人民が集会を持たないで過ごした週はほとんどなく、それどころか、週に数回集会することさえあった」(p.198)と説明し、「人口が多いから全員が集まって集会するのは無理」なんて言い訳だ、と言います。
国家を生き生きしたものに保つためには、
で、この集会は、
であるべきです。
では、なぜこんなことをルソーは言うのか。それは、
とルソーは考えているからなのです。黙っていてはダメだ、現実を常に注視し、よりよい政治体のうちで生きることを、私たちは怠ってはならない。このようにルソーは私たちを叱咤します。人民集会を通して、人民は「神聖な存在」になるのです。いや、人民集会を通してしか、人民は真の意味で人民たりえないのです。
恋愛でも一緒ですよね。「彼氏・彼女には、別に言わなくても自分の気持ちは伝わっているはずだ」なんて、夢のまた夢。言わなきゃ分かりません。
さて話を戻します。次の引用を見てください。
なぜこう言えるのでしょうか。それは、代表される者がみずから出席しているところには、もはや代表者という者は存在しないからです。
人民の集会は、「政治体の盾であり政府の轡」(p.201)なので、「いつの時代にも首長たちの恐れるところ」(p.201)でした。そのため、政府は、市民が集会する意欲をくじくために、市民を監督し、集会を開くことを反対し、集会を妨害し、甘言を憎まなかったのです。
私たちは、政府の「犬」ではないはずです。もちろん、正しい政府の場合は従えばいいのでしょうけれど、それは「現時点で」正しいにすぎません。正しくないことは、いくらでもあります。だからこそ、行動しなければならないのです。
代表者
このことを裏返すように、国家が滅亡の危機に瀕するときは、公共の職務が市民たちの主要な仕事でなくなり、市民たちが自分の身体で奉仕するよりも自分の財布で奉仕するほうを好むようになったときだ、と続けます。戦闘に赴かねばならない場合に、軍隊に金を払って自分は家に残るように。あるいは、会議に出向かねばならない場合に、代議士を任命して自分は家に残るように、です。
この考え方は、明らかに一般の意見と反します。このことはルソーも自覚的です。でも、そのうえでなお、「賦役のほうが租税よりも自由に反することが少ない」(p.202)と言います。
ルソーがこのように言うのは、良い国家ならば、市民の心のなかでは、公共の問題が私的な問題よりも優越するはずだ、という確信があるからです。悪い政府だからこそ、「だれもそこへ赴くために一足でも足を進める気になれない」(p.203)のだ、というわけです。
そもそも、主権は、代表され得ないものです。ならば、一般意志も、だれかに代表される、ということはあり得ません。それゆえ、人民の代議士は、
のです。
「金で決着をつけること」はfinanceと言われますが、これは昔、ラテン語で「奴隷」の使う言葉だったようです。だから、政治の問題について、代表者を金で雇って、自分たちの代わりに議決させているような近代の人民に、ルソーはこんな厳しい言葉を浴びせます。
つづけて、
といい、いかに「自分たち自身が」話し合いに参加することが大切か、を述べるのです。私たちは、ルソーのこの説教をまじめに引き受けて、政治への態度を反省しなければならないように思います。
次回予告
次回で第三篇を読み終わりたいと思っています。議論も大詰めです。最後まで楽しく読んでいきましょう。
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本文中に〔 〕で示した脚注を、以下に列挙します。
〔注1〕『ルソー全集 第五巻』作田啓一訳、白水社、1979年、198頁。以下、本記事において、特に断りなく頁数だけが示されている場合は、ここにあげた白水社版『ルソー全集 第五巻』の頁数を示しているものとします。
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