大学生警備員の小砂10:神戸へ
ここの話は私が20歳の頃のしょうもない経験と考えたことを元に回想し、解釈しているだけで、必ずしも正しい知識ではないことが含まれていることをあらかじめおことわりしておきます。
1992年、夏。私は朝の新聞配達以外は「引きこもり」のような生活から少し歩みだし、20歳の時に江東区にある高層ビルで警備員のアルバイトになりました。夜間のアルバイトです。そして、夜勤の警備員アルバイトをしながら、21歳の時に大学生になりました。
さて、すみません、かなり時間をすっ飛ばしてしまいます。すっ飛ばした時間の出来事についてはまた機会があれば他で書きたいと思います。
1997年、24歳で大学を卒業し、結局就職はしませんでした。そして、3月末で辞めますと伝えていたアルバイト先に、大学院の受験が終わるまでペースを落として働かせてくださいとお願いしたのでした。
今では他大学の大学院に進学することは珍しくないですし、社会人大学院生も当たり前です。Windows95も発売され、インターネット文化も少しずつ広がってきましたが、大学院の入学情報や過去問などは今ほどオープンではなかったし、その大学を優秀な成績で卒業した学生が内部で進学するという文化がまだ残っていました。何といっても、Yahoo!を本気でヤホーと呼んだ私ですから(ナイツより先!たぶん)。
さらに、学部での専攻と修士課程の専攻が異なれば、指導する側の教員も合否に慎重になります。また、この時期は文部科学省が大学院生の定員を大幅に増加させ、大学院出身者を研究者育成だけでなく、行政や企業で活躍できる人材の候補に据えたのでした。当然、大学院生は増えますが、研究職のポストは限られています。なので、大学の教員側も学生が卒業後にどのような進路を希望しているのかを気にします。
私は総合的に考え、教育学をベースに置きながら、開発経済学や人的資源管理の方向で学ぶことにし、「修士号を必須条件」にしていることが多い開発途上国における教育系の開発コンサルタントや研究員を目標に設定しました。小学校の教員免許も持っているよ、というオプションを持って、受験校の教員をなんとなく安心させてあげるのです。
そして、国際開発や国際協力の分野の専攻や教育分野のコースがあって、学外からでも入学しやすい独立研究科(大学院の下に学部がない)に受験校を絞りました。そして、生活環境などもろもろを考えて、神戸大学大学院を選びました。あと、私が坂本龍馬と勝海舟が好きで、神戸には神戸海軍操練所跡があったことも理由のひとつです。
試験対策もじっくりやっている時間もなかったので、穴埋め問題や一問一答問題用に自分が読みやすいと思った社会開発論についての「教科書1冊」と開発経済の重要そうな部分を「書き写したノート1冊」。国際ジャーナルから、これは面白そうと思えて、かつ基本がしっかりしていそうな英語論文を数編コピーし、最初ゆっくり辞書を引きながら読んだ後は、同じ論文を何度も何度も黙読且つ音読しました。(確か、試験は英和辞書の持ち込みは可でした)
国際ジャーナルの論文は、アブストラクトも無駄なく丁寧に書かれているし、イントロダクションの文献レビューはこれから論じられる項目について年代順に過不足なく引用しているし、ディスカッション、結論のところで、「今はこれが分かっていて、将来の課題はこうだ」ということ、「研究手法上の限界」なども短く書いてある。良い論文ほど初学者に優しい。
繰り返し、繰り返し読むことで、論文のスタイル(ドシエ)とすることができる。多読も良いのだけれども、専門分野のスタイルを身に着けた方がいろいろと応用が利く。つまり、問いに英語で回答する問題はもちろん、日本語の論述問題でも問いを「自分の知っている方向に我田引水する」のにちゃんと書かれた国際ジャーナルの論文構成をまねると色々便利なのでした。
口述試験についても図表や数式をそのまま述べるわけではないので、その構造を理解して、わかりやすく説明できる例を考えておく方が実践的と判断しました。
さて、今思えば、前日か当日に飛行機か新幹線で神戸に行けばよかったのに、何故か高速夜行バスで三宮に向かいました。貧乏性ですね。三宮から阪急六甲に向かい、そこから神戸市営バスに乗って六甲台のキャンパスに向かいました。正門から大きな階段を登り、神戸港を見下ろすと(受験前なのに)ああ、来年はここに来るのだなと思ったのでした。
メモ
翌日の面接審査の時、面接官の先生は3名いましたが、誰一人として、年齢のことや空白の時間を何をしていたかなどは聞かれませんでした。そして、私が素人的な考えと研究計画を述べ、今思えば大風呂敷な夢を語ると一人の面接官が「ここにいる先生方みんな、そんなことをするにはどうすればいいか考えているんだよ。一緒に考えような」という趣旨のことを言ってくれました。勝海舟のような人だなと思い、歩いて六甲の山を下りながら、キラキラ光る海を見て涙が滲むのでした。
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