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妻はゼミ生3:科学の記録についての「大きな黒板」

はじめに

妻はゼミ生を18年くらいやっています。もちろん、本当のゼミ生ではないですよ。私のくどい話を聞き続けて18年ということです。そして、「プラトン以降、とくにメタ・フィジクスで世界を見ようというあの視点がこの課題の起点・・・ぶつぶつ」という話しが本当にしつこいと思った時は、「このクラッカーにね、クリームチーズと蜂蜜を付けると美味しいのよ」「PNG(パプア・ニューギニア)のエメラルドマウンテンが一番好きだわ」と返してくるのです。

これが出たらね、ゼミは終了です。そして、「このイチジクのジャムも美味しいよ」という返事をしないと、その後、一週間口をきいてもらえなくなるという地獄を味わうことになります。


まあ、パソコンに向いて、妻の問い掛けに生返事を返していても、同じような地獄を見ることになります。そんな怒りを込めた問い掛けです。

「論文はだれの(何の)ために書いているの?」

回答は、求めた人への「贈与」です。勝手に受け取った先人からの「バトン」を次世代に受け渡すのです。「えー。やだやだ、こんなの持っていたくないよ。ハイ、パス。えんがちょ」ということも、あるかもしれません。

そんな問い掛けから始まりましたが、当然、道草をせずに話が進むはずはありません。

西欧合理性

なぜ、西欧社会にだけ(プラトニズム的な)メタ・フィジクスの視点が芽生えたのか、わたしにもその理由が明確にはわかりません(なんとなくの仮説は立ちますが)。プラトニズムは、ほら、あのプラトニック・ラブのプラトンです。

プラトンはご承知のとおり、古代ギリシャの哲学者です。古代ギリシャ哲学と言っても、プラトン(あるいはソクラテス)より前の世代と後の世代で、劇的に考え方が異なります。その劇的な変化の理由が、いろいろ本を読んでみても明確にはわかりません。それと、メタ・フィジクスは日本では、なんでかよくわかりませんが、形而上学(アリストテレスはプラトン先生に初めは反対していましたが、結局、継承発展させたようです)という中国の古典から借りてきた言葉に訳されています。

細かいことは差っ引きますが、西欧合理性という時に、このメタ・フィジクスが土台になっていることは確かでしょう。キリスト教会も、その普及と世俗(皇帝)との関係のために、メタ・フィジクスの「イデア(記号みたいなの)」に「神」を代入して、プラトンーアウグスティヌス主義教義体系と後の、アリストテレスートマス主義教義体系にそれぞれアレンジを加えながら西欧社会に広げたのです。これがもとになってできたのが「西欧合理主義」だと思います。

知の体系と西欧合理主義

私もいま、なんでかわかりませんが、研究者をしています。ですので、否応なく、この「西欧合理主義」に取り込まれます。やはりですね、現在の「知の体系」の大きな部分は西欧合理主義がもとになっていると思います。大学で教えることの多くは「西欧合理性」に基づくものですものね。

よく、「俯瞰してください」というでしょ。あの視点が既にメタ・フィジクスです。つまり、人工衛星のように宇宙から地球を見下ろして、どんどんフォーカスして見ていくと、社会が見えてきて、そこにはなんと(バーチャルですが)「自分」の姿も見えるのです。今、視線は宇宙の向こうにも行っちゃっていますけど。

大航海と西欧合理性

高校生の時、私は英語が嫌いだったんです。「英語」を体に取り入れすぎると、精神的に植民地化されてしまうような気がして。自分なりに咀嚼するのに時間がかかりました。だからかどうかはわかりませんが、私が大学に入学したのは21歳の時です。大学で学ぶことは西欧合理性を学ぶことなので、それを元にものごとを考えて、社会を変えて行ったら精神の植民化の拡大に加担しているような気がしていたのです。若気の至りの変な考えですね。

一方で、西欧社会の考え方に妙に惹かれもしたのです。私の通う高校が東京・神田神保町まで歩いて行けるところだったので、部活の間を縫って、本を読みに行っていました。「さぼうる」「ぶらじる」で、おじさんたちにまみれてそちちの読書をするのが楽しみでした。

さて、植民地主義につながる大航海時代。冒険家(と商人)が航海の資金を集めて旅に出て、帰ってくると航海の記録を出版して、次の資金の足しにする。前の人の公開記録を研究し、追体験をしながらその中で知ったことを新たな知見として追記する。

研究に似ているところありますね。研究計画を書いたりプレゼンして研究費を調達し、先行研究を読み込む(Literature review)。実験系の研究であれば特に再現性(追体験できるか)、反証可能性(一方的な決めつけになっていないか)などを確認しながら、先人に尊敬の念を抱きつつ、自分の新たな知見を添える。

先人から受け取った知識や経験を、自分の経験を通じて咀嚼して、次の世代に渡す。先人に尊敬の念を示すためにも、どこからどこまでが先人の発見で、自分が添えた発見は「これ」ということを示す必要がある。本来は、このマナーや流儀やスキルを身に着けるのが「大学」であって、知識を水平上に増やすことは、どこでもできるのだと思われます。自分が勉強しなかったせいか、大学でこれを学んだ記憶が空白なのですが。

この「科学」の記録ですが、やはり、西欧社会の力は健在なのだと思います。科学の記録についての「大きな黒板」があるとするでしょ。そこには、先人の書き込みがあるわけです。そして、「わたしは、Aという種類ののXの大きさについて、これだけのバリエーションがあることを調べました。でも、Bという種類についてはまだわかりません」等のように、これまでに「強い関連性がある可能性を示した」「エビデンスを追加的に提供した」ことなどを黒板に印をつけていきます。

そして、次に研究成果を報告する人は、「皆さん、この黒板では、この分野の知見が多く集まっています。しかし、見てください、ここの隙間に空白があります。私の研究はこの空白を埋めるための一歩になります」と言って、研究費をもらったり、国際学術誌に論文を報告することになります。

そして、私も45歳を過ぎて、ふと思ったんです。「この黒板、何語で書いてあるんだろう」って。いや、そんな疑問形で呟いてしまいましたが、たぶん英語でしょうね。ということは、英語で研究の成果を書いて報告しないと、この黒板に反映できないし、どこが本当に空白になっているのかがわからないじゃないかと。

48歳になって、英語で書いてみたんですよね。はじめに(Introduction)のところで、Little is known about the relationship between・・・・(関係性についてほとんど知られていない)とか、No previous studies examines that・・・(これこれを調べた研究はにゃい)とか記入しますが、確認のためにもう一度、論文検索サイト(Scopus やGoogle scholar等)で調べて、過去にはこのような研究はないというように示したうえで、「私は(私たちは)、この黒板のこの誰もやっていない隙間をこの論文で(少し)埋めます!」と宣言するわけです。

実際に感じたのですが、この時、日本語で書かれた論文(英語以外の言語の論文も)は、なかなか検討されにくい。もちろん、引用することもあります。自然科学の分野で国際学術誌に投稿することは、一般的なことなので、理系の人にはこの辺のことは当たり前すぎてあまりピンとこないのかもしれないですね。

おそらく、日本はこれまで、なんやかんや言っても人口サイズ(人が多かった)も大きかったし、それなりの教育や知識についてのマーケットもあった(人文社会の本を買う人もそこそこいた)。学生は日本語で授業を受けることができるし、行政職員や学校教員、企業等も日本語で文献が読めた方が便利です。

実際、明治維新後にスコットランドから工部大学校の教師(お雇い外国人)を呼び、イタリアからは美術・デザイン分野、ドイツやフランスからは法律分野や医学分野、アメリカからは農学分野に多くの外国人教師を招き、当初、学生はそれぞれの教科をそれぞれの言語で学んでいたわけです。野口英世のころは、医学生の予備校でも外国語で学んでいたでしょう。

世代が進むと、お雇い外国人の人件費は高くて負担なので、人材を日本人の教員(研究者)に置き換える必要がある。分野によっては、外国語文献を翻訳し、日本語で研究して、日本語で論文を発表し、日本人の学生に教育するというサイクルが出来上がる。

これは日本の産業発展という意味では都合がよかったと思います。日本語の研究成果は、識字率の高い日本では多くの技術者や職人にまで広く伝わり、ものづくりに新しい知見を取り入れるには効果的だったはずです。(参考:廣瀬淳一「科学技術分野の女性研究者育成における歴史的文化的影響について―日本における西洋科学の導入過程を参考に―」)

さて、これからは、日本の人口の減少、学生の減少が予測される中で、文系分野の学問マーケットが縮小していくでしょう。また、日本の経済やもの作りがあまり活発じゃなくなると、世界からの日本への関心も減少してきます。アニメーションや漫画などの分野では、日本で学びたいと考える外国の方もいるでしょうが、全体としては留学生を含め日本の学問への関心は薄れてくるかもしれません。だって、学問するのに日本語を勉強する必要があったら大変じゃん。

社会科学分野でアジア諸国の研究者の論文を国際学術誌のオンラインでよく見ます。おもしろい研究がたくさんあります。これから学ぼうという日本の若者は、そういう時代の雰囲気も意識しないといけないのかもしれません。大学院に入り、パイプラインをなるべく漏れずに流れ、研究者のポストを得るというパイプラインシステムはあまり機能していません(入り口と出口の定員が違うし)。

「科学の黒板」の話にもどりますが、たぶん、日本には日本式の黒板が別途あったんじゃないでしょうか。一部の学会もその役目を果たしているのかもしれません。たしかに、学問について、例えば日本の教育現場、医療現場など現場への貢献を考えると、日本語で書かれた論文成果は非常に役立つでしょう。歴史や文学などの研究の中にも日本語で書くことにこそ意味があるものもあると思います。ただ、一方で、日本での研究を踏まえて、世界の科学と共有したほうが面白い分野もあると思います。

私も40歳になってはじめて大学の教員になったこともあり、日本語で書くことに甘えていましたが、よく考えてみれば、英語で書いて国際学術誌に出さない理由なんてなかったんですよね(まあ、出してもしょうがない内容もあるからですが)。

西欧の文学、文化、歴史等について日本語で論文を書く場合は、だれを読者としてフォーカスするのでしょう。日本語話者の研究者(学会)か、学生、外国の考えや価値観が日本人の生活や社会にどのように影響を与えるかという点でしょうか。きっと、世界の「科学の黒板」に足跡を残すための研究の場合は英語やそれぞれの分野に関係する言語で書いているのだと思います。

私の場合は、たぶん、心の奥で、今後、「ボランティア精神に富む、良いものを鑑定する目を持つ外国語が得意な若者」が現れて、私の日本語で書かれた文献を手に取り、「これは素晴らしい、ぜひ、世界に知ってもらおう」という淡い夢を抱いていたのかもしれません(あるわけない)。

いや、私もまだ(もう)49歳なので、やらない理由を考えていても仕方ないということで、去年からぼちぼち、無理せずに書き始めました。勉強になります。年齢・国籍関係なく、もちろん学生からも、出来る人に教えてもらいながら、楽しいです。教えてくれる人はすべて「先生」です。

追伸、昨年からボチボチ書き始めた論文が書きあがりました。 

しかし、今になって、高校生の時を思い出してしまいます。あの「英語で書くと植民地にされている気分という感情」。やはりね、やればやるほど、西欧合理主義の世界なんですよね。

理系分野はその西欧合理性の体系に従って、かれらの黒板を埋めていくわけです、彼らが認める手法でです。逆に彼らが認めない手法はアクセプトされないかもしれません。理系分野で日本人のノーベル賞が出るじゃないですか。あれも、西欧合理性の体系のあの黒板を管理している人たちから「(私たちの体系と手法に基づいて)解明してくれてありがとう。ようした。ご苦労」に聞こえなくもないんですよね。

非西欧社会で、実力を示すには、何をもって表現できるか、考えてみました。そしたら、やはり「ものづくり」で見せたくなるじゃないですか。このフラストレーションは、日本のものづくりの原動力だったかもしれないですね。

自然科学であれば、西欧合理主義の枠組みのなかで捉えて、分析して、成果を出しても「ようした!」と認めてもらえるかもしれません。人文社会科学の「科学の黒板」はどうですかね。

ノーベル賞で言えば、経済学賞があります。最近は心理学的手法が加わり行動経済学的な手法が評価されていますけれど、人の行動や価値間に係る分野の研究について、たとえば、西欧合理性でうまく説明できないとか、西欧合理性の一部を否定するような非西欧社会から生まれた知見は認めてもらえるのでしょうか(西欧合理性の体系下でルールに従って非西欧合理性を説明すればよいのですね。アマ―ティア・センとか)。

まあ、西欧合理主義の立場の人に「認めてもらえるのでしょうか」と懇願している時点でやはり学問的に植民地化されているのかもしれませんが。



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